アメリカの35代大統領ジョン・F・ケネディは、日本人記者団に尊敬する日本人は誰かと質問されて、上杉鷹山と答えたエピソードがある。「為せば成る、為さねば成らぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり」の言葉を残したのが鷹山だ。
上杉鷹山は、幼いころから細井平洲(へいしゅう)という学者について学んだ。
藩主たるもの、どういう考え方と行いをしなければならないかを教わり、人格を磨いた。
上杉謙信以来の名門米沢藩は、財政赤字で借金が膨れ、収入の15万石すべてを返済にまわしても百年以上はかかる状態だった。明和元(1764)年、ついに藩主上杉重定は、幕府へ版籍を奉還したいと尾張藩主徳川宗勝に相談した。どうにもやっていけないから、いっそ領地をすべて返上すると前代未聞の話を持ち込んだ。
驚いた宗勝は、考え直すように説得したうえで重定を隠居させ、九州の遠縁の高鍋藩から養子を入れ、藩政改革を進めようとした。その養子が上杉治憲(はるのり・鷹山)だった。
鷹山は改革を進める。だが小藩出身の養子であることから改革方針は軽んじられて、格式にこだわる家老たちの反対にあう。重臣らの非協力のなか、自ら倹約を徹底した。粗末な木綿の服を着て、一汁一菜の食事で通した。さらに華美な儀式や慣習を質素にした。荒地の開墾を行い、漆(うるし)やこうぞなどの特産物の育成をした。人を派遣して学ばせ、織物や紙すきの技術導入も図った。
不要な組織の整理で、藩士たちの無駄な城勤めからの解放を進めた。手が空いた下級藩士たちは、開墾や特産物の栽培に力を注ぎ、武家の婦人たちは織物や紙漉きに精を出した。やがて藩内の産物や加工品が藩外や江戸でも売れるようになった。ようやく財政改革の成果が出そうになってきたとき、武士が百姓町人の真似をするなどもってのほかと、改革を快く思わない重職7名が連署して改革阻止の行動に出た。しかし改革に期待を寄せる下級武士団から鷹山は支持され、この改革妨害を乗り切った。
「できない」と諦めるか、 「できる」と考えられるか、リーダーシップを発揮するうえで、決定的な違いが出る。「できる」という意識に立つ。
何か問題に突き当たったとき、「これは無理だ、できない」と思うのか、「もしかしたら何とかなるかもしれない」と思うのかで、道は大きく分かれる。無理だと思えば、そこから先に一歩も進むことはないが、できるかもしれないと思えば、いつか問題を解決できるチャンスを得たことになる。
「できるかもしれない」、という根拠のない自信や、ばくぜんとした思いこみは、人生においてはとても大事だ。この意識は、その人の人格から現れるのだという。
2015年02月10日
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバック