26日(日本時間27日未明)、パリで開催の政府間委員会で、日本が提案していた「和紙 日本の手漉(てすき)和紙技術」が、2009年に先行登録していた島根県浜田市の「石州半紙」の無形文化遺産に一括登録し直しが承認された。今回のユネスコ登録は、埼玉県小川町と東秩父村の「細川紙」、岐阜県美濃市の「本美濃紙」の2件を加えて再登録したもの。国内の登録件数は22件で変わらない。
島根県は東部の出雲地方と西部の石見(いわみ)地方とに分かれており、それぞれ雲州、石州ともいう。そしてその地方で漉かれている紙を出雲和紙(出雲紙 いずものかみ)、石州和紙(石見紙 いわみのかみ)と総称する。米子駅からJR山陰本線10:45発(おき 3号)に乗って、すぐの安来(やすぎ)は島根県の最東部にある。これから島根県の南西部にある津和野まで約三時間半である。
出雲和紙には出雲民芸紙(八束郡八雲村)、広瀬和紙(能義郡広瀬町)、斐伊川和紙(飯石郡三刀屋町)がある。また、石州和紙には、那賀(なか)郡三隅町を中心に、津和野町(鹿足郡)、桜江町(邑智(おうち)郡)がその紙郷である。
歴史上、平安時代の927年(延長5)に撰進された律令の施行細則「延喜式」で、古代の製紙事情が多く収められている貴重な文献などから、約1300年もの間、手漉き和紙が漉き続き守られてきていることがわかる。江戸時代の浜田、津和野両藩は徹底した紙専売制を行い、石見紙のうちとくに石州半紙の名は広く知られた。かつては大坂商人が石州半紙を帳簿(大福帳)に使い、火災の時にいち早く井戸に投げ込んで保存を図ったといわれが、それほどその強靭な品質には信頼がおかれている証として語られている。生産の最も多い石州半紙(楮紙)は、地元で栽培された良質の楮を使用して漉かれ、その色彩はほのかな薄茶色を帯びており、緻密で強靭で光沢のある和紙である。
和紙はその上に絵や書がえがかれて始めて完成品であってそれ自体は単なる消耗品にすぎないという、和紙そのものの持つ美しさを認めない考えや、誰が漉いても同じだという、紙すき職人の技術の優劣や地方的社会の常識的な和紙の見方に対し、書きやすく、美しい紙をつくることを推奨し「楮紙は楮紙らしく」という、いわば和紙の美学をはっきり意識して明文化したのは、柳宗悦によってだといわれる。このため、和紙職人らが和紙の美しさ、真価を主張する努力を重ねてきた。
石見地方に盛んであった和紙づくりも、現在は三隅町あたりを中心にわずかに残る程度となった。しかし、先人たちから引き継がれた技術・技法を守ることの重要性を柳が説くと、それに呼応した安部栄四郎が「出雲民芸紙」として昭和43(1968)年に国の重要無形文化財の指定を受けると石州半紙技術者会(会長久保田保一・会員7名)が製造している「石州半紙」も翌年に指定されることになる。さらに、重要無形文化財の「石州半紙」を代表とする石州和紙の技術・技法を保持し、総合的振興を図ろうと、三隅町に住む職人の手で石州和紙協同組合が設立された。平成元(1989)年には、その「石州和紙」が経済産業大臣指定の「伝統的工芸品」の指定を受けている。
国際日本研究の一人である私としても、日本文化が世界的な文化遺産として認証されるかは気になるテーマだった。特に、和紙は柳宗悦も拘りの装丁本を出していて、和紙の職人らとのかかわりも深かったからだ。
以下は、時事デジタルなどのニュースから
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「和紙」のユネスコ無形文化遺産の正式登録の知らせは午前3時前。それを受け、埼玉、岐阜両県の生産地では27日、未明まで決定を待ちわびた関係者らが喜びを分かち合った。「技術が世界に認められた」「力になる」。守り続けた伝統が世界に認められ、歓喜の輪が広がった。
本美濃紙を生産する岐阜県美濃市では、登録が決まると和紙を染めた色とりどりの紙吹雪がまかれ、武藤鉄弘市長(62)や職人ら、市の施設に集まった数十人が笑顔で万歳を繰り返した。正倉院にも残る日本最古の紙の一つで、高級障子紙などに使われてきた本美濃紙。保存会の鈴木豊美副会長(62)は「両親の跡を継ぎ、伝統を残す一念でやってきた。うれしくて言葉がない。ただ先人に感謝です」と破顔した。武藤市長は「1300年続いた技を1000年先まで残すため、後継者育成の基金を作りたい」と抱負を述べた。
埼玉県東秩父村や小川町で作られる細川紙は丈夫な特性を生かし商家の大福帳やふすま紙に重用された。同村の工房では、登録の連絡を受けた技術者協会の鷹野禎三会長(79)が松本恒夫町長(67)らと固く握手し、職人らがくす玉を割った。会見した鷹野会長は「登録は宝物だ。受け継いできた技術が認められ、大変ありがたい」と、顔をほころばせた。松本町長は「登録は暮らしの中から姿を消しつつある和紙の良さを知ってもらう大きな力になる」と意気込んだ。
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「民芸紙」・・・民芸運動のなかから生まれてきた各種の手漉和紙の総称。
近代の手漉和紙は二つの大きな流れをもつ。一つは、工業紙として高価に輸出された紙として、タイプライター原紙(典具帖紙(てんぐじょうし)、謄写版原紙(雁皮の薄様)、図引紙(三椏紙)である。それらは、わずかな厚さのむらや、一つのピンホールも許さない厳重な規格によって、漉く技術は限界まで洗練されたが、和紙の美しさは失われた。他の一つは障子紙、傘紙などとして日常生活に供給されたが、生産能率を上げ価格を安くし、さらに都会趣味に応じるため鉄板乾燥などの改良策を行い、原料に木材パルプなどを混入し、薬品漂白などで紙を真っ白にするなどの工法が製紙試験場等の指導で普及していった。
http://abe-eishirou.jp/index.php?id=7
このように手漉和紙本来の特色が失われる傾向に対し、知識人の間で批判はあったが、とくに昭和初期から民芸運動を活発に指導していた柳宗悦は強い危惧を示した。柳は1931年に島根県松江市で開催した新作民芸品の展示会のおりに、当時、29歳の安部栄四郎(1902‐84)の漉いた厚手の雁皮紙を賞賛したのが機縁となって、安部の東京における紙の個展や雑誌『工芸』の和紙特集(1933)などを通じ、民芸紙の指導を行った。それは、コウゾ、ガンピ、ミツマタの未晒紙、植物染紙、粗い繊維の筋などを入れた素朴な装飾の紙などで装丁、襖紙、色紙、短冊、封筒、案内状などの用途を配慮したものであった。柳はこれらの実践をもとに、自然の素材の美を発揮した和紙を主張する「和紙の美」(1933)、「和紙の教え」(1942)等を発表、この民芸紙の論考にそって寿岳文章らとの研究と実践を続けた。その後、民芸紙の試みは八尾民芸紙(富山県八尾町)、因州民芸紙(鳥取県青谷町)、琉球民芸紙(沖縄県那覇市)などと広がり、現在の和紙産地では多かれ少なかれ、民芸紙が生産されるほど一般にも普及している。
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中韓の反応は・・・・悲喜こもごも
和紙の無形文化遺産登録は、紙を発明した中国、技術を伝えた韓国でも報じられた。「つまり韓国の伝統紙『楮紙』が無形文化遺産に登録されるってことだよね?」、「楮を原料とする紙は韓国固有のものだ。中国の学者たちが昔、『韓紙が一番使いやすい』と注文していた記録も残っている」「紙といえばエジプトか中国が発明したので、和紙は知らない」など、 ネット上では和紙の無形文化遺産登録を祝福する声も聞こえたが、紙を発明した国、伝播した国としては嫉妬交じりのコメントも多く見られた。
中国人学生を日本へ正式な留学生として受けいれる学校を作ったのは、柳宗悦の叔父・嘉納治五郎であった、柳自身は妻・兼子とともに朝鮮の人々に西洋音楽を演奏を通して伝え、また朝鮮手工芸の美を讃え、保持する重要性を説いた。この三者が我孫子の地に別荘を構えて両隣に住んでいたというのは、もっと知られてもいいことだろう。
参照:
・時事デジタル(2014/11/27-05:36)
・RecordChina http://www.recordchina.co.jp/a96581.html
・世界大百科事典(第2版 CD-ROM版)…日立デジタル平凡社
2014年11月28日
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