日本酒には、つくればつくるだけ売れる時代があった。現在のようにアルコール飲料に多様な選択肢はなく、慶弔時の振る舞い酒といえば日本酒、進物の需要も多かった。晩酌の習慣は一般的で、外でも日本酒はよく呑まれていた。何より日本人の飲酒量が今よりずっと多かった。だがこの時期、灘、伏見の大手から地酒の蔵にいたるまで、多くが繁栄にあぐらをかき、酒質の研鑽もないがしろだった。日本国中に、まずい酒が横行したのだ。女性たちが「たしなむ程度」と言わずに、食事でアルコールをお洒落に飲むようになると、ワインとチーズも普及した。こぎれいなサイズの輸入ビールも増えた。やがて日本酒は敬遠され始める。最盛期に4000社を数えた日本酒メーカーは、高井幹人がこの世界に入った頃、実際に酒を醸しているのがわずか1463蔵に激減した。09年には1302蔵まで減少している。
都会に流通する地酒は、純米大吟醸酒を頂点に戴く、手の込んだつくりの高価な酒だ。大多数の地方蔵の経営は、醸造アルコールや糖類などを添加し、安価かつ多量に売り捌く普通酒で支えられている。その最たる例は大容量、低価格パック酒だ。高井の蔵でもメインは普通酒。30あるタンクのうち、純米酒のタンクは、たった1つしかなかった。だが彼は、純米酒や吟醸酒づくりを志す。
「ウチの先祖は近江商人です。行商先の群馬で酒蔵を開いたのは290年近くも昔のこと。明治期に6代目が、時のヒーロー大山巌元帥の名をとって巌ブランドを立ち上げました。……10年、なんとか会社を持ちこたえることができたら、社員の厚生年金と社会保険の満額受給要件を満たせる。そのために、蔵を存続させ少量の酒を醸し続けることにしました」酒づくりほど奥深いものはありません。遅まきながら、普通酒じゃない酒を醸すのも方策ではないか。座して死を待つより、新しいことに挑戦してみようという気になりました」
ミイラとりがミイラに─苦笑する高井だが、迷いはなかった。杜氏と二人三脚でうまい酒づくりに邁進した。
巌は最盛期に3000石を産したが、今は500石(一升びん換算で5万本)の小さな蔵でしかない。地元流通が主で、大都会で巌を入手するには苦労する、それこそ手に入れて飲んでみたい日本酒になった。
文学から民俗学、経済学などの学際を行き来する社会学を修めたいと、高校球児での夢半ばだったことから、慶応商学部に合格したのも、好きな野球人生を花開かせたいと翌年には京大文学部に再入学し、野球部にも所属した。
「夢って言葉、青臭いけど自分は大好きです。いずれはウチで人材を育て、日本酒復興を果たしたい」地元、群馬でようやく手に入るかと引っ張りだことなっており、近い将来、日本の銘酒と呼ばれる日が来るだろう。
参照HP:
http://gqjapan.jp/more/business/20130314/businesseliteturnedsakemaker2/page/4
:::::その3:::::::::::::::
酒蔵の人々に、「救世主」「ニューリーダー」「革命児」と期待される若き8代目当主の佐藤卯兵衛だ。5代目は大正期に大阪大の前身・大阪高工醸造科を卒業、原料米の精選と徹底した精米、長期低温発酵など近代的酒造法を採用し、グレードの高い酒を醸し、その卯兵衛の時代に新政の名は全国へ轟く。また、蔵つき酵母が極めて優秀と認められ「きょうかい6号酵母」として全国に頒布されることになった。曽祖父は、うまい日本酒づくりの先駆者であり改革者だったのだ。 保守的で極めて緩やかに時間が流れる日本酒業界において、卯兵衛の曾孫・祐輔の言動は眼をひく。
発酵飲料としての食文化はもちろん、歴史や民俗学、地方文化、嗜好品、農業、コミュニケーション論、社会学、心理学……これらの面からもアプローチし、日本酒文化を確立していきたいという。
少年から青年期を振り返ると、多感な時代の佐藤の輪郭が浮かぶ。志向と嗜好は人を語る。彼は1浪して東大文学部英文学科に合格する。卒業論文は「ボブ・ディランとウイリアム・S・バロウズ」──ビートニクを代表する2人を選んだ。「やりたかったのは心理学や英文学。ダニエル・キイスの『アルジャーノンに花束を』が一番の愛読書でした。それにサイケデリックな世界にも興味津々で、プログレロックのバンドを組みベースを弾いてました。キング・クリムゾンとかピンク・フロイドみたいな有名どころだけでなく、ドイツ系のカン、アシュ・ラ・テンペルなんかが愛聴盤です。大学時代は自由に、好きなことだけをやらせてもらいました。小説や詩、評論を書き、南米やインドを旅し、音楽を聴き、美術館を巡りました。こういったことが、今の僕の土台をつくってくれました」
こうした学生時代の後、職業人となった彼は、営業先で愛知の「醸し人九平次」と出逢い、思わず居住まいを正す。うまい日本酒は、五感だけでなく五臓六腑に染みわたる。身体に同化し感動させる。とうとう佐藤は酒づくりに従事する決意を固めた。──07年の秋、父に頭を下げ、蔵入りを請う。
「蔵に入って、酒に対する忠誠心は誰にも負けないつもりでいます。だってお酒は人智をこえたところにありますもん。酵母も米も水も発酵も、ぜんぶ自然のたまもの。自然とケンカしちゃダメ。素直に仲よく、でも必死に工夫してやっていかないと」「うまい酒で心地よくトリップしてほしい。それにドラッグだから、カルチャーをからめて論じないと批判や悪口の対象になっちゃう」
「酒づくりと大学で打ち込んだ創作は、精神という意味で何も変わりません。美しいもの、感動するもの、ピュアでカッコよくて、ちょっとクセのあるもの……いや、変わっていないのはクリエイティブなマインドだけじゃなく、僕自身かもしれないですね」
参照HP:
http://gqjapan.jp/more/business/20130311/satoyusuke/page/4
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