このところ、日本の食に関連して綴ってきましたが、極めつけの「日本酒」のこの頃を鑑みて、秋の夜長も楽しみ、このところの私のテーマである国際日本研究も進めたいなどと思う。そこで、ワイン、発泡酒、輸入ビールと心移りしたところもありますが、じっくり味わう日本の秋に、それらの煽りで日本酒の影が薄くなってきて、酒量に影響していたとは誰も考えなかった。しかし、現実問題、日本酒は1974年を境に生産量と販売量とも下降線を描き続けていた。廃業、転業を余儀なくされた蔵、消えた銘柄は数知れない。
その中で、福島県二本松市に日本酒「大七」を醸す彼の蔵はある。大七は、生酛という昔ながらの手間のかかる醸造法をあえて選び、数年しっかりと熟成させてから出荷する。「大七、生酛、熟成」は連語のように日本酒好きに語られ、銘酒としてのステイタスは揺るぎない。
「私が実家を継ぐ決心を固めたのは、大学卒業を控えた1983年あたりです。幸い実家はまだ安泰でしたが、停滞感が強く保守的な日本酒業界は、若者が喜んで入っていく世界じゃありませんでした。でも、祖父が語ってくれる酒づくりの逸話は、私にとって子守唄やおとぎ話のようなものでした」
秋になると酒づくりが始まり、蔵は賑やかになる。杜氏が蔵人を率いて現れ、ひと冬の間、祖父や父と醸造に邁進する。雪深い季節も人と物の出入りは途絶えない。春が来て酒づくりを終えると、母屋の2間をぶちぬいた広間で大宴会が催される─太田にとっては甘酸っぱさをともなう、懐かしい記憶だ。
祖父は眼を落とし、沈黙した後にぼそりといった。
「……英晴、もうこれ以上は待てないよ」
太田はその横顔に老いと焦燥、家業の重みを見る。
「祖父は80歳を過ぎていました。父が跡を継いでいるとはいえ、たった一人の男の孫が蔵に入るのを見届けたい。酒づくりの神髄を伝えたいという願いがひしひしと伝わってきました」
太田は再び葛藤する。
バブル経済、吟醸酒、生酒などのブームこそありましたが、業界は次第に厳しい状況に落ち込んでいきました」太田は暗闇を抜け出すために模索を続ける。「結局は酒質を高めるしかない。大七の特質は、ほとんどの蔵から、面倒ということでそっぽを向かれた生もとづくりでした。おまけに何年も熟成させてから出荷する。効率の悪い酒づくりですが、この弱点は、必ず強みになる。そう信じてやってきました」
祖父から父、孫へ。90余年にわたる歳月と研鑽を経て、大七は決して派手ではないが、誰もが認める良質と伝統のブランドとなった。近年になって大七の酒づくりは再評価され、追従する蔵も増えた。
太田は苦笑まじりでいった。
「つくづく自分は“二本松人”だと思います」二本松では、「正直に真正面から取り組まないと評価してもらえない」。住民は、「とにかく義理堅い」。かつて、戊辰戦争では「義理ある会津に加担」し、賊軍よばわりされることも厭わなかった─。
太田は東京大学法学部で政治哲学を専攻していた。2人の姉がいて、男子は彼だけだ。幼時から本好きで、青春時代はドストエフスキーやプルースト、サルトルなどを読破した。 「学者になりたい想いは否定できません。でも、今は迷いなどありません。帰るべきところへ帰ってきたと断言できます」 「とりわけロシア文学には耽溺してました。ロシアは独自の文化を花咲かせた国ですが、いわゆる西洋の華々しい文明からはちょっと離れたところにいました。そういう風土で醸された文学や詩に、ロシア人の複雑なコンプレックスを垣間見た─東北人たる私の感性や血が反応し、共鳴したんでしょうね」
蔵の創業は1752(宝暦2)年というから260年をこす歴史を持つ。この歳月の間には山と谷が混在している。ことに太田が経営にタッチしてからは、日本酒業界そのものが苦境と辛酸を味わうことになった。家業と大七の酒づくりのすばらしさ、日本酒という食文化を守る意味、家の伝統の持つ重み……これらをどう語り、説得するか。30数年前の自分に立ち戻りながら、父となり当主でもある太田は、あれこれ思案を続けていた。更に福島震源の大震災である。
幸い、建物自体の被害は軽微で、タンクが少しずれたり、瓶詰め途中の酒が落ちた程度の被害で済んだ。、夕方までには概ね社内は落ち着きを取り戻し、その日の夜に予定されていた会合に出ようかと思った位だった。
地震だけを念頭に置いていたわけではないが、新社屋については、百年後も十分に使える建物を、とできるだけ強固なものにした。生もとづくりには、蔵に棲みついた微生物の存在が欠かせないので、蔵を建て替えるということは、そのたびに微生物にも引越しをしてもらわなければなりません。数十年ごとにやっていたのでは、その手間も大変。実際、新社屋への移転には5年もの時間をかけたとういう。当時としてはあまりなかった外断熱を施した厚いコンクリートの壁を採用するなど、耐震構造も備えた蔵になった。
さらに、毎年秋頃に防災訓練を行っていた。震災前の訓練では地震体験車で、全社員が関東大震災や阪神淡路大震災の揺れを体験者だった。それで、瓶貯蔵の方法を見直し、瓶ケースにかけるバンドを増やしたり、全体をラッピングするなどした。社員も大きな揺れを体験したことで、震災当日もあわてることなく行動したという。停電もない地区だったので、事故発生の第一報を聞き、まずは全社の空調を止め、さらに換気扇にビニールシートを張り目張りをして、外気を遮断しました。ガイガーカウンターを入手して測定したところ、酒蔵の中は0.06マイクロシーベルト程度で、平常値と変わらない状態だった。
また、「杜氏が井戸の水をどんどん汲み上げるよう にと指示、大きな地震によって地下水の水脈が変わり、水が出なくなるのを防ぐためだったんです。水脈がずれて行き場を失いかけた水を導くということです。杜氏によれば、昔から言われてきたことだったそうです。」
その後、換気口などには高性能のフィルターを設置したり、搬出・搬入口にエアカーテンを導入するなど、恒久的な対策に変換した。「事故直後から続けてきたので、社員は今も入室する際には濡れタオルで体の塵やほこりを拭っていますね。たくさんの方に応援や支援をいただき、感激しました。海外の取引先も心配して連絡をくださったのですが、皆さんあまり放射線のことには触れないんです。寝た子を起こしてはいけないというような感じで、聞きにくかったのでしょう。隠せば隠すだけ不安は募ります。だから、詳しい状況を逐一ホームページに掲載して、英文にも訳して。正確な情報が伝われば、皆さん理解してくださいます。」
「FUKUSHIMA」は今、世界で有名になってしまった。海外に行っても注目される。でも、だから得をすることもあったという、フランスで行われた国際アルコール見本市では、これまではいろいろな地酒メーカーの共同ブースで出品していたが、初めて単独ブースで出品しました。福島の蔵元ということで注目され、逆に安全性を訴えることができたと思ったというのだ。
その後、スカイツリーの公式ショップに採用されたり、高野山の開創1200年の際に記念の酒を奉納することが決まったりと、その評価がますます高めた。
「日本酒の国際化が進む中で、日本酒の原点と言いますか、本来の製法が見直されているのだと思います。国内で採れた作物を醸造する。微生物の力や自然の力、さらに人間の知恵や技を積み重ねて個性を生む。それは、まさに日本酒の持つ普遍的な価値だと思います。生もとづくりを大切にしたい」
震災後、「日本回帰」とか「絆」という言葉に象徴されるように、「和」のものが見直されて、塩麹のような伝統調味料が人気となった例もある。日本酒は、シェアとしては小さくなったが、選ばれ続けていく努力は怠ってはならないと語る。
また、政府は「國酒プロジェクト」を立ち上げ、日本酒を応援しようという動きを見せている。日本酒と日本食を組み合わせてその魅力を伝えるということで、期待したい。実は、日本から輸出される食品の中で、日本酒は8位に位置して、海外の市場では日本酒は伸びている。ところが、日本酒とワインを比較してみると、ワインを飲む日本人なら誰でも1つや2つ、ロマネコンティとかワインの銘柄を挙げるが、でも、フランス人に日本酒の銘柄を聞いても、ほとんどは知らない。これからは、日本酒への正当な評価をしてもらえるように、日本人がフランスでワイナリーを訪ねるように、外国からも日本酒ファンが来るような状況をつくることも必要だ。
大七酒造では昨年秋、日本酒専門家を認定する団体「日本酒サービス研究会」と「酒匠研究会連合会」が主催する「地酒大show2011」において、日本酒全2部門とリキュール部門の3部門で最高位となるプラチナ賞を受賞した。しかもこの三冠を2009年、2010年、2011年の3年連続で受賞しているというから、まさに快挙である。生もとづくりという先人が築いた造りにこだわり続けたことで、「かつては変人と呼ばれたこともあるんです」と笑う太田社長だが、そのこだわりこそが今や誰もが認める逸品を生み、高い評価を得ていることは
参照HP:
http://gqjapan.jp/more/business/20130313/businesseliteturnedsakemaker/page/2
2014年11月11日
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバック