欧州宇宙機関(ESA)は日本時間13日1時ごろに、火星と木星の間になるチュリュモフ・ゲラシメンコ彗星に人類初の着陸したと発表しました。小型探査機フィラエが観測調査とデータ送信を完了したが、彗星近くにとどまる親機ロゼッタを経由しての通信は、日本時間15日午前9時半すぎに途切れた。今後は機体に張った太陽電池パネルに太陽光が当たる時間を長くしてバッテリーを充電し、観測再開を目指す。
ところで「八十歳で宇宙飛行士になる!」と学生にハッパをかけている先生がいます。「学生たちの遺伝子を目覚めさせるには、ワクワクすることに取り組むことが一番です。ですから私は大学でもしょっちゅう、そういうことを言う。すると目の色が変わる学生もいるんです。その中の何分の一かでも大化けしてくれれば世の中を引っ張っていけるはずで、そういうきっかけをどんどん与えていくことが、教育者としての私の使命だと考えているのです。」と公言するのは、大同大学学長の澤岡昭氏でした。ご自身の過去を振り返って、ひとは飢餓状態になるとスイッチが入るという、しかも不登校の時期もあったというのだけれど、マイナスに思えることも人生には役にたったようだと言われました。
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実は私は小学校六年になる頃、朝学校に行く時間になると頭が痛くなり、いまでいう登校拒否になりました。
その時に母から言われて、一年間休学したのです。
病院に行っても原因が分からなくて、母は私が心の病になっていることに気づいたのですね。
母は校長に呼ばれて随分叱られたようでしたけれども、頑として行かなくていいと。
でもそのおかげで、私はもともと勉強のできる子供ではなかったのですが、活字を読む習慣が身につきました。家にいても何もやることがないのですから、母の書棚にあった婦人雑誌や本を読んで過ごしたのです。
そして一年遅れて六年になりましたが、友達もいないので毎日問題集を眺めて過ごしていたら、中学校に入って受けた実力試験でクラス二番になりましてね。 友達から口々に「勉強ができるんだね」なんて言われて、それをきっかけに人間がガラッと変わったのです。
高校では生徒会長や文化祭委員長まで務める活発な人間になりましたが、あの不登校の一年がなければそういうことはあり得ませんでした。あの一年間は私にとってまさしく飢餓状態でした。その不登校の体験から確信したことは、人間は変われるということです。それは私の教育の原点でもあります。
月並みかとは思いますが、人生では決して遅すぎるということはない、いくつになっても変われるチャンスはあると私は信じています。ただ、それは何の努力もせずにある日突然か変われるということではありません。
今日よりは明日、明日よりは明後日、0.1%でも0.5%でも成長する努力を積み重ねている人だけにチャンスは訪れるものです。
年齢は関係ありません。
ですから私も、そういう日々を生涯積み重ねていきたいと考えて「八十歳で宇宙飛行士になる!」と宣言しているわけです。“人間の可能性はいくつになっても開ける”
出典:
『月刊致知 2014年10月号』致知出版社
(大同大学学長、澤岡昭氏 & 筑波大学名誉教授、村上和雄氏対談)
2014年11月14日
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