2014年10月24日

特攻、許されなかった帰還

太平洋戦争の末期、海軍の特攻隊が初めて米艦船に体当たりしてから25日で70年だということです。なぜ多くの若者が死ななければならなかったのか。生き残った元隊員は戦略の非人間性、死に逝く追い詰めるやり方であったことを証言して、いまも戦争の罪を問い続けています。

http://digital.asahi.com/articles/ASGBM02JJGBLTIPE01V.html?iref=comkiji_txt_end_s_kjid_ASGBM02JJGBLTIPE01V

太平洋戦争の末期には爆弾、爆薬等を搭載した軍用機、高速艇、潜水艇等の各種兵器、もしくは専用の特攻兵器を使用して体当たり、自爆する戦死を前提とするものが中心となりました。

数年前に中央学院の文化祭で、たまたま映画上映があった。上映時間に間に合ったので席に座ってみたのが、『月光の夏』(1993、毛利恒之の小説の映画化)でした。実話などを元に創作したドキュメンタリー・ノベルによって、帰還特攻隊員の収容施設「振武寮」の存在が明らかにされるようになりました。特攻隊員として出撃したが、何らかの要因により攻撃に至らずに基地に帰還した特攻隊員が収容されていた施設だったということえす。エンジントラブル・機器トラブル・敵機の攻撃での不時着など外的要因から、内的要因などでしたが、帰還の直後に福岡の司令部に出頭命令が下り、即座に振武寮にて事実上の軟禁状態です。死して軍神となるはずの特攻隊員が生きて戻ってきたことは激しく非難され、「人間の屑」「卑怯者」「国賊」と罵られたというのです。振武寮の目的は帰還隊員にもう一度死を覚悟させて特攻に赴かせるものであったともいわれ、隊員のなかには精神的に追い詰められ、自殺を図る者もでたということです。

振武寮に関する公的資料はいまだ発見されず(私文書で「振武寮」という言葉のあるものは存在する)、また振武寮の存在は当時の軍の機密事項に属したため、今でも知る人は少ないという場所です。後にNHKスペシャルで特集が組まれました。http://d.hatena.ne.jp/dj19/20090420/p1

歴史は語られないままで終わる部分も多々あり、実はそのほうが多いのかもしれません。風化させないように、努力されたり、偶然の出会い、語りによって、新たな歴史認識がされていくこともおきています。今月、知覧に行ってきましたが、Web、Twitterを利用できる時代に暮らしている者として、多くの人の良識と努力で平和な世界の構築へと向かうように願っています。


posted by Nina at 00:00| 千葉 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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