2014年10月30日

おもてなしの抹茶茶碗(国宝)は六点中、二点のみ国産

陶磁器の焼き方は、いくつかの技術革新が重ねられ、芸術性も加えられていきます。特徴的なのは、5世紀に朝鮮半島から伝来した「須恵器」で、『窖窯(あながま)』で作られました。
『窖窯』とは、斜面に大きな溝を舟形に縦に堀り、天井を土で覆っただけの簡単なものをいいます。この時期に同じく朝鮮半島から「瓦」、陶器・須恵器、唐三彩(緑・茶色・白)、轆轤の技術が伝わっています。奈良・天平には、奈良三彩(三色釉薬)、色付きを良くする為に、陶磁器に釉薬をかけるスタイルが始まります。 これらの生産技術は、各地に広まっていきましたが、その過程で施釉技術のみが失われ、窯で硬質の無釉陶器をつくる技術が 各地域に根付くことになりました。その後、陶器は一般庶民も用いるようになったため、実用的な無釉のお椀や皿を大量生産するようになりました。これが『山茶碗』です。

中国・北宋王朝(960年〜1270年)時代の青磁と緑釉が日本へと広がる。
備前焼、漆器が伝わる。朝鮮の高麗茶碗の技法(象嵌)が伝わる。

鎌倉・室町時代には現在六古窯と呼ばれる愛知県の常滑窯・瀬戸窯、福井県の越前窯、滋賀県の信楽窯、兵庫県の丹波窯、岡山県の備前窯の六窯をはじめ各地で製陶が盛んになりました。

信楽焼、瀬戸焼が鎌倉時代に伝来。 瀬戸焼は、室町・戦国時代の14世紀始めの黄金期に一気に広がったとされます。備前焼は、室町時代終わり頃の黄金期に一気に広まりました。〜安土・桃山時代の陶芸、 瀬戸や美濃地方で、志野、黄瀬戸、瀬戸黒、織部と呼ぶ釉薬を施した茶碗、水指、香合など優れた茶陶の製作が盛んに行われ、京都ではいよいよ楽焼が始まります。1639年から1717年まで釜山にある窯で、高麗茶碗と呼ばれる日本の茶人向け(輸出用)の茶器が焼かれました。

三島焼は、日本の記録として一番最初に書かれている陶磁器。備前焼や丹波焼、信楽焼、また越前焼の抹茶茶碗に対する評価に加えて、日本のお茶会が、禅を含め日本の文化の主要なものになてていきます。萩焼が伝わる。安土桃山終わり頃には茶道具が広がっていきます。伊賀焼や唐津焼、高取焼、阿賀野焼、また薩摩焼が伝わる。美濃焼が始まる(志野焼、織部焼、黄瀬戸焼、瀬戸黒焼)。

江戸(元禄)には、伊万里焼、黒谷焼、鍋島焼、九谷焼、染付焼などの磁器が伝わる。野々村仁清と尾形乾山らによって京焼が広まる。

〜江戸時代初期、元和二年【1616】、現在の朝鮮からきた陶工である李参平が、磁器の原料となる磁土を有田で発見しました。かれはこれを用いて日本ではじめて白磁を作ったとされ、磁祖といわれています。九州有田ではすでに桃山時代にやきものが作られていますが、朝鮮人李参平により本格的な磁器の生産がはじめられたといわれています。

明治時代 〜明治時代の陶芸、 明治以降はゴットフリード・ワグネルなどからヨーロッパの科学技術を取り入れて、生産効率が飛躍的に向上した。20世紀に入ると国力の低下と共に陶芸、陶磁器の質も低下して、アヘン戦争後、輸出も無くなって、日本がそれに代わります。

志野焼は茶人・志野宗信が美濃の陶工に命じて作らせたのが始まりとされ、滋賀県可児市久々利から土岐市泉町久尻にかけて産出する、耐火温度が高く焼き締りが少ない五斗蒔粘土やもぐさ土という鉄分の少ないやや紫色やピンク色がかった白土を使った素地に、志野釉(長石釉)と呼ばれる長石を砕いて精製した白釉を厚めにかけ焼かれる。そして、この志野茶碗の「卯花墻」(うのはながき)は、国産茶陶としては2つしかない国宝(昭和34年指定)の一つなのです(他の一つは本阿弥光悦の楽焼白片身変茶碗で銘不二山)。 

他に四茶碗が国宝になっていますが、じつは朝鮮および中国で焼成のいわゆる唐来ものなのです。
おもてなしの最たる茶碗の国宝は、こういう歴史があり、それが日本文化たるゆえんです。
日本文化は到来物を重んじて、そこに良さや美を認める寛容さ、融合の美があります。
なんで国境や海峡にこだわって、いいものが生まれるでしょう、和の心は交わる心であるようです。


posted by Nina at 00:00| 千葉 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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