芸術の秋、我孫子の研究をすることは、面白い。
それは別荘地であった頃に、白樺派の活動があったと言う所で文化的な日本の中心、ピークとなるようだ。そのお蔭で、我孫子にバーナード・リーチの窯が作られることにもなった。
つらつら、調べていくとリーチは陶芸を世界的な近代アートに認知させた人物なではと思う。分野は違うが、我孫子発信で「ちきゅうTALK」を通じて、日本の良さを伝えていこうとの私の考えても相通じるとまでに思うようになっている。それで、焼き物にも関心を持つようになってしまった。今取り組んでいる論文を書くのに、避けて通れないこともあるからだ。そういうわけで、このブログでも、大河ドラマ「軍師・官兵衛」を見ながら、秀吉の朝鮮出兵を思い返しては調べたことをブログにも綴っている。
磁器発見前の有田焼は、白い素地に呉須(コバルト)で文様を描いた藍の染付が多かったが、酒井田柿右衛門が赤絵の技法を生み出し、色絵の磁器が盛んに焼けるようになる。それが、1650年代に入ると、オランダの東インド会社を通じて、ヨーロッパ諸国に輸出されるまでに成長、ヨーロッパの販路を広がっていく。当時、伊万里の港から荷を積んで船が出たため、有田焼は海外ではIMARIと呼ばれ、豪華な色絵や金襴手は、王侯貴族の羨望の的になっていたという。
●古伊万里 江戸時代に焼かれた濃い染付と、赤絵の具を贅沢に使った金襴手と呼ばれる様式のことを指す。伊万里の名は、前述のように、伊万里の港から船積みされたものなので、特に17世紀前半に焼かれた器を初期伊万里と区別される。
●有田焼の系譜 現在の有田焼といえば、佐賀県有田町の周辺で焼かれた磁器のことである。つまり、その総称だ。透明感のある白磁に、藍色の染付、赤、黄、緑などの色絵を施したものが多い。これらは、400年近い有田の歴史の上に立つものだが、歴史的に論じられる有田焼とは、古伊万里、柿右衛門様式、鍋島藩窯の3つの様式の総称です。柿右衛門様式には「濁手(にごして)」と呼ばれる、乳白色の肌を多く残しながら赤絵を描く手法が特徴。
● 鍋島藩窯様式
有田焼は藩で擁護されていたが、なかでも、鍋島藩窯様式は、献上用の極上品のみが焼かれ、それを特に、鍋島様式と区別している。さらに、皇室に納められたものは「禁裏様式」と呼ばれた。その為、1675(延宝3)年、鍋島藩は有田から優秀な陶工を集め、藩窯をこの山深い大川内山に移すということまでした。当時の高度な技法の秘密は厳守され、不良品の破片さえ外に持ち出すことは禁じられていたという。有田から伊万里の海へといたる途中、狭い谷間に31軒もの窯元が肩を寄せるように軒を連ねる山里「大川内山(おおかわちやま)」は秘窯の里と呼ばれた。現在の鍋島焼といわれるもののほとんどは、この大川内山で焼かれている。染付と赤、青、緑の3色を基調にした色鍋島、精緻な染付の藍鍋島、青磁の3タイプあり、青みがかかった地肌や、縦に縞の入ったくし高台、裏文様に特徴がある。
もともと、西洋には中国の景徳鎮の陶器が多くもたらされていたが、明と清の政権交代期の混乱によってそのルートが途絶。次にオランダ人が目をつけたのが日本だった。丁度、初代柿右衛門が長崎で中国人から赤絵の技法を学び、有田に戻って柿右衛門様式と呼ばれる独特の美を持つやきものを完成させた頃だった。東インド会社を設立したオランダ人は、柿右衛門のやきものを世界中に伝えた。柿右衛門様式は海外でも高く評価されるようになり、今でもドイツやベルギーの城に行くと柿右衛門の名品が残されている。ドイツのマイセンの白磁は西洋磁器の頂点とも言われるように、柿右衛門を再現しようとして生まれたものだ。このように西洋の人々を魅了した柿右衛門様式の特色は余白の美。中国絵画の絵画的構図を手本にしながら、日本人独特の余白を生かした美しさが特徴となった。
そうして、陶磁器は西と東をむすぶ、美の伝道師としてリーチと柳宗悦は友情を深め、東から西へ文化の融合を試みた、その出発点が我孫子だったとは、凄い事じゃないか、とワクワクしてくるのだ。先週の大河ドラマで、秀吉は亡くなった。脚本によって、歴史上の人物も色々に描かれ変わってしまうものだなあと、であれば、自分たちの歴史、我孫子のみんなが知るべきであろう事を明らかにしていき、論文にしていきたい。
2014年11月15日
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