2014年10月29日

朝鮮出兵とやきもの(茶碗)戦争、窯場の盛衰

大河ドラマ「軍師官兵衛」では、秀吉の朝鮮出兵の前後も語られて、クロスを手にするようになった黒田官兵衛の苦悩が見えます。そして、国会でも女性閣僚の政治資金にまつわる金の問題で去就が問われています。政治の難しさ、多くの関係者によってなされる選挙など、不確かな政治資金の収支報告書の出し方では次々に政治家の名前が挙がり、弁明をもとめられていますが、その点は男女、老若に容赦はありません。

で、話は戻って、秀吉の朝鮮出兵ですが、その目的の一つであったのが、焼き物であったともいわれました。日本人が陶磁器を珍重するようになったのは茶の湯の文化であり、遂には茶碗を領地と取り替えたいとばかりの熱の入れようとなったことが、ドラマでも伝わってきました。

◆唐津と名護屋城
日本の陶器(焼き物)の歴史は、12000年前に遡ると言われ、世界でも最も古い伝統があります。唐津焼は、朝鮮の陶工たちによってもたらされた蹴轆轤(けろくろ)と連房式登り窯によって、たくさんの焼き物を作られ、それらは唐津港から全国に売り出されるようになって藩財政を潤すことになります。それでも、磁器の方法は会得されておらず、中国や朝鮮からに遅れること1000年ともなっていました。唐津焼の創始期である16世紀後半から、慶長元和年間の最盛期を経て、衰退期に転ずる17世紀半ば頃まで、約70年間にわたって生産された唐津焼をとくに古唐津(こがらつ)と呼び、古唐津窯跡が現在も残っています。

唐津焼は玄界灘沿岸の唐津から西へ伊万里、武雄、さらに南西へ有田、その南の藤津郡、県境を越えて三川内などは、古唐津の古窯跡が散在する一大窯業地です。唐津とは、唐へ渡る津(港)であり、対馬や壱岐を通じて陶工たちがこの地で焼き物を始めたのが、室町末期でした。そのころに茶道は、武人や富裕な商人の間における不可欠の教養であったといわれ、当然、陶器の水差しや茶碗に関心が集まり、高度な技術を持った朝鮮陶工が必要でした。朝鮮の陶工は、それまで使われていた穴窯に替わって連房階段式の半地上窯、施釉陶(せゆうとう)の器が唐津市の南方、岸岳(きしたけ)山麓で焼かれるようになります。ところが、1594年(文禄3年)、築城に関して豊臣秀吉の怒りにふれた領主波多(はた)氏は滅ぼされ、岸岳の陶工もこの地を追われます。古唐津の初期の窯跡は、波多氏の居城があった岸岳山麓(唐津市の旧・北波多村・相知町の区域)に点在しています。岸岳古唐津の古窯群は飯洞甕窯(はんどうがめがま)系と帆柱窯系に二分され、藁灰釉を用いた「斑唐津」は後者で生産されたもの。窯は朝鮮式の割竹形登窯で、特に飯洞甕下窯跡(佐賀県指定史跡)には窯床と窯壁の一部が残存しています。

戦乱に明け暮れた豊臣秀吉の時代には、武将たちの間に利休の導いた茶の湯が流行し、秀吉も、当時珍重された高麗茶碗の故郷である朝鮮半島へ関心を深めていきました。秀吉出兵の折に唐津に築かれた名護屋城はわずか5ヶ月で誕生した巨大な軍事都市で、最盛期には城下は人口20万人以上と言われ、1592年4月には秀吉も着陣し、唐津にほど近い名護屋の城に留まり、山里曲輪に築いた茶室で茶会を楽しみ、近辺の窯々に茶陶を焼かせたとも言われています。この出兵によって、日本の焼き物の歴史は大きく変化していきます。ここから10数万の兵が朝鮮へ渡り、功名合戦の激しい戦いが繰り広げられたのです。

秀吉は渡海した諸将に指示を出す一方で、瓜畑で仮装大会を催したりしたともといわれ、こうした秀吉の壮大な野望の半ばで、1598年死去し、日本軍が朝鮮から撤退、6年余でその城が役目を終えることになりました。国の特別史跡に指定されている現在の名護屋城は、当時は大阪城に次ぐ大きさを誇り、城跡から発掘された瓦には金箔辺を見ることからその壮大さを偲ぶことができます。5重7階の天守閣はもちろん、巨大な城の跡形は城壁の一部が広範囲に残ったのみ、後の権力によって壊され、巨大な城郭を造った秀吉の栄枯盛衰を語っています。

◆朝鮮出兵のもう一つの目的、茶碗(やきもの)戦争
豊臣秀吉の二度にわたる朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の明・朝鮮・日本を併合する野望は、秀吉の茶碗に対する思い入れという背景のなかで計画されたものでした。この朝鮮出兵が別名「やきもの(茶碗)戦争」といわれてきた訳です。渡来した李朝の陶工達により、新たな唐津陶器窯が続々と開かれました。このころが唐津焼の最盛期と考えられ、日常雑器を中心に急速に流通圏を広げ、中世以来の伝統を誇る瀬戸美濃と国内陶器市場を二分するまでに成長しました。

時に、茶人に「一井戸、二楽、三唐津」とも言われるほど愛されている唐津焼は、佐賀県の西部から長崎県一帯で焼かれた陶器で、唐津港から出荷されたのが、その名の由来といわれています。秀吉の朝鮮出兵時に、佐賀藩主であった鍋島直茂は、何千人という陶工を連れ帰ります。その中の一人が、李参平でした。来日当初は、佐賀の多久で陶器を焼いていましたが、納得がいかず、磁器の原料である白磁石を求めて歩き回り、1616年、ついに、有田の泉山で良質の白磁石を発見し、窯を構えました。日本で初めて白磁の焼成に成功し、有田焼の祖は朝鮮人だったということです。

その数、約七万人ともいわれる朝鮮人が連れてこられた中で、福岡県内には二つの焼き物の発祥の地が生まれます。両藩境に近く、また、粘土が良い山があり、隣あっています。現在の直方(のおがた)市大字上頓野の鷹取山付近と田川郡福智町(旧、赤池町)大字上野です。この地に陶工を連れてきた黒田長政によって高取焼きの祖を、細川忠興によって上野焼きの祖を誕生させたということです。後に細川氏は、小倉から、熊本へ藩替えとなり、上野焼きの祖は、長男と三男を連れ、熊本で高田(こうだ)焼きを初めました。残った妻と次男と娘婿が、新領主、小笠原氏につかえ、上野焼きを続けました。

朝鮮やきものへの執心は、千利休が堺に輸入されたばかりの朝鮮の焼物の中に大ぶりの高麗茶碗を見つけて大変な感動を覚えた一品がもたらしたものでした。焼物を手にした利休はさっそく秀吉に献上、それ以来大井戸茶碗とよばれ、茶道の世界では第一級の名品となっていきます。

朝鮮では、その茶碗はサバル(沙鉢)といって食事用に使う大ぶりな器でした。日本では後にこれを大井戸茶碗として、国宝や重要文化財になったものが数々あります。 京都大徳寺、狐逢庵にある国宝「大井戸 喜左衛門」は我が国にある茶碗の中でも最高傑作だといわれています。この為、茶道の世界では「一井戸、二楽、三唐津」または「一楽、二萩、三唐津」といわれます。その井戸風の茶碗は萩焼の陶工が歴代の最高のものを作り出してきたので一井戸と一萩が同じ意味となって、時に「一萩、二楽、三唐津」とまで呼ばれるようになってきました。

秀吉は、焼き物戦争によって朝鮮の陶工・李勺光を和議の印に受けるが、それが毛利藩に李勺光が預けられた経緯は定かでありません。その後に李勺光が萩焼の源流を造ることになったのです。その時以降、朝鮮系の製陶技術が九州、山口各地に伝わり、江戸時代の窯業の特徴を産み出しています。このようにして唐津、萩、薩摩、有田、上野、高取、伊万里、その他の窯業地が開かれました。

◆連れてこられた朝鮮人陶工たち
日本で最初に磁器を作った肥前の陶工・李三平(金ケ江参平)は、有田で磁器の陶石を発見するまでは、多久から有田までの山谷で、陶土を求めいくつかの窯を築いている。陶器、磁器と手がけていったこの陶工も、相当の技術を身につけていた陶工と思われるが、肥前・佐賀の領主鍋島家の重臣、多久安順に連行されて来たときは、陶工であることを隠しているむきがある。なにかのきっかけで、多久安順は、陶工であることを聞き知って、その仕事を命じている。有田焼の李三平は金ケ江参平に、武雄の後藤家信に連行された宗伝は深海宗伝に、唐津焼の祖は寺沢志摩守によって連行され、彦右衛門、弥作、又七の日本名となり、さらに大島、福本、中里など苗字までも名のるほど同化していきました。

拉致された朝鮮人はその後、全国に散逸した。「4百年の長い道 朝鮮出兵の痕跡を訪ねて」の著者・伊達世は、彼らのことを被虜人としています。陶工ばかりでなく、僧や医師などの知識人、「位」の高い者(両班=ヤンバン)たちの子女、そして数えきれぬほどの無名の人々を連れてきたことを調べ上げています。異国の地で、ある者は自殺し、逃亡をくわだて切り捨てられ、または名を変えての「日本人」としての生活が始まってと記しています。

元禄十年、椎ノ峰(現伊万里市)の焼物師たちは佐賀藩伊万里の商人から金子を借り、その返済が出来ず、唐津藩へ訴えられる事件が起きた。掛り合った焼物師たちは、椎ノ峰から唐津領の各地に追放された。木場村へ作五衛門、柏崎村へ弥五衛門、福井村へ太郎右衛門、双水村へ弥七郎、佃島村へ、田中村、入野など百姓として入っていったと言われます。

九州の朝鮮陶工のなかで最も悲惨な道を歩んだのが、薩摩・島津義弘に連行された陶工たちでした。1598(慶長三)年冬、串木野島平、市来神之川、鹿児島前之浜の三ヵ所に総計八十名ほどの陶工たちが上陸している。そうして、それぞれ上陸地に住みつき、帰国jを許されたのは朝鮮国王の親族といわれる李金光だけといわれている。これとは逆さらに故国より遠い沖縄へ、安・張の二氏の陶工は連行されている。この二氏以外は、鹿児島上陸後あまり年数を置かずに立野辺に、すべて集められた。藩の保護も薄く農業片手間の陶器作りで、細々と暮しているところへ、土地の住民たちが襲い、土足で小屋に入り家屋をこわしたりした。朝鮮の陶工たちは、立野辺の村人たちに乱暴はやめてくれるよう再三、頼んでみたが、聞き入れてくれないので、その一人をなぐってしまった。 その結果が土地のものが、さらに多数、集団で仕返しに来ると聞き陶工たちは、みな苗代川の方へ移り住んでいったのだということです。しかも、苗代川には異国の陶工たちが雨露をさえ、さける小屋もなく木の下に寄って日を送っていたので、その姿を見かねた苗代川の農民たちは、食料を与え、仕事を与え、陶工たちも小屋をつくり、農民の家の手間仕事をたより、この地に住みついていったということです。その二、三年後、ようやく藩の保護もあり、土地と屋敷を与えられ陶器作りに精を出すようになります。しかし、朝鮮人は薩摩では、他所(日本人)ものとの結婚を禁じ、日本名も禁じ、金宦、大宦、頓宦、勝賢、利訓、可春、龍仙などとつけられて日本人と同化することを許されず、さらに藩主茶屋遊びには呼び寄せられ朝鮮踊りなどみせなければならなかったというような哀話も伝えられています。

江戸時代に入って窯場が林立すると、燃料の薪の切り出して山野の荒廃が深刻な問題となりました。鍋島藩は
朝鮮陶工を除く日本人陶工824 人を追放し、伊万里地域の窯場4カ所すべてと有田地域の窯場7カ所を取り潰し、有田地域東部の13カ所の窯場に統合しました。それによって窯場は有田に集約され、唐津も甚大な影響を被り、多くの窯元が取り壊されました。それでも、唐津の茶器は全国でも評判が高かったため、茶陶を焼くための御用窯として存続しました。その焼き物は幕府にも多数献上品が作られたため、献上唐津とされます。

しかし、明治維新によって藩の庇護を失った唐津焼は急速に衰退、有田を中心とした磁器の台頭により、多くの窯元が廃窯となりました。

posted by Nina at 00:00| 千葉 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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