それは、初めて、日本人である大黒屋光太夫という人物が外国での正式(1791年の11月)の茶会で紅茶を飲んだ最初の人になったという史実に基づいています。
茶がヨーロッパに伝わったのは17世紀初頭といわれ、チャールズ二世の妃キャサリンが紅茶を広めます。海難にあってロシアに漂着した日本人(船主・大黒屋光太夫、伊勢の国=現在の三重県)は、ロシアに10年間滞在せざるを得ませんでした。帰国の許可を得るまでの辛苦の生活の中で、ロシアの上流社会にも普及しつつあったお茶会に招かれる幸運に恵まれます。とりわけ1791年の11月には女帝エカテリーナ2世にも接見の栄に浴し、茶会にも招かれたと言われています。そのようにお茶が嗜まれるようになるのをアフタヌーンティーという形にしたのは、イギリスの7代目ベッドフォード侯爵夫人で1840年頃のことです。
一方、日本の茶席の起源については平安初期の「日本後紀」に記述があり、当時の日本人は、茶を嗜好品としてよりも薬としてとらえており、必要量のみを煎じて飲んだと考えられています。鎌倉時代末には相当普及し、禅宗を伝えた栄西や道元によって薬として持ち込まれた抹茶が、禅宗の広まりと共に精神修養的な要素を強めて広がり、さらに茶の栽培が普及すると茶を飲む習慣が一般に普及しました。ところが室町時代なると本場中国の茶器「唐物」がもてはやされ、大金を使って蒐集し、これを使用して盛大な茶会を催すことが大名の間で流行(唐物数寄)したり、闘茶(飲んだ茶の銘柄を当てる一種の博打)が流行しました。これに対し、村田珠光が茶会での博打や飲酒を禁止し、亭主と客との精神交流を重視する茶会のあり方を説いた。これがわび茶の源流となっていく。わび茶はその後、堺の町衆である武野紹鴎、その弟子の千利休によって安土桃山時代に完成されるに至った。遊芸化の傾向に対して、本来の茶道の目的である「人をもてなす際に現れる心の美しさ」が強調されました。また、大徳寺派の臨済宗寺院が大きな役割を果たし、利休流茶道の根本とされる「和敬清寂」という標語もこの過程で生み出された。各流派による点前の形態や茶会様式の体系化と言った様式の整備に加えて、「人をもてなす事の本質とは」と言った茶道本来の精神を見直すことによって、現在「茶道」と呼んでいる茶の湯が完成したといわれます。
戦国の世が終わる九州平定(7月)後、関白・豊臣秀吉は京都の朝廷や民衆に自己の権威を示すために、聚楽第造営と併行して大規模な茶会を開催しました。7月月末より、諸大名・公家や京都・大坂・堺の茶人などに10月上旬に茶会を開く旨の朱印状を出し、京都・五条などに触書を出して、北野の森(京都北野天満宮境内)にて天正15年10月1日(1587年11月1日)に茶会を開きます。
その時の触書には、
秀吉が自らの名物(茶道具)を数寄執心の者に公開すること。
茶湯執心の者は若党、町人、百姓を問わず、釜1つ、釣瓶1つ、呑物1つ、茶道具が無い物は替わりになる物でもいいので持参して参加すること。
座敷は北野の森の松原に畳2畳分を設置し、服装・履物・席次などは一切問わないこと。
日本は言うまでもなく、数寄心がけのある者は唐国からでも参加すること。
などが主な事でした。
北野天満宮の拝殿(12畳分)は3つに区切られ、その中央に黄金の茶室を持ち込んでその中に「似たり茄子」などの秀吉自慢の名物を陳列しました。そこで麩焼き煎餅、真盛豆等の茶菓子が出されたとされている。御触れの効果からか当日は京都だけではなく大坂・堺・奈良からも大勢の参加者が駆けつけ、総勢1,000人にも達しました。会場では野点が行われ、町人たちも楽しんでいましたが、秀吉にはもっと来るはずだったとの気持ちであったのか、10日の期間を初日だけとされます。(この、新暦11月1日に北野の大茶会があったことも紅茶の日にまつわる決定になったのかもしれません。)
江戸末期になると、武家の教養として作法が固まっている抹茶の茶の湯を嫌い気軽に楽しめる茶を求める声が町衆から出てきた時期に、単なる嗜好品と化してしまった煎茶の現状を憂い、煎茶に「道」を求める声があがった。これらの声をくみ上げる形で、江戸時代中期に黄檗宗万福寺の元僧売茶翁(高遊外)が行っていた煎茶に改めて煎茶の作法を定めた煎茶道も生まれます。明治維新によって、大名の庇護から外れると各宗派が門弟を維持、殖やす試行錯誤で大衆化し、すそ野を広げました。
1906年(明治39年)、ボストン美術館中国日本部に勤務していた岡倉天心はアメリカで『THE BOOK OF TEA』(邦題:『茶の本』)を出版紹介します。この出版は欧米文化人の関心を呼び、「茶道」を英語で「tea ceremony」というのも一般化(欧米人にとっての「茶道」への近似体験として、「ティーパーティでのホストの心遣い」を挙げ理解を促した)させるよう尽力しました。1980年代初め頃には、日本の茶道の所作が、もともとの中国茶(茶芸)にも用いられるようになり、茶芸での「茶巾をたたむ」所作は、日本の茶道の影響の表れではないかと言われます。
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