2014年08月08日

迷宮入りではいけない、深刻化した問題の解決は交流促進していくこと

「慰安婦問題」についは、1982年まで事実として認識されていなかったと西岡 力(にしおか つとむ。東京国際基督教大学教授・現代挑戦研究者。「救う会」会長)は書いています。
西岡は1982年から1984年までソウルに住んでいましたが、その時、吉田清治は韓国 のテレビに出演して、自分の戦争犯罪を謝ったりしていたのを見てはいましたが、それほ ど韓国では大きな問題になっていなかったと話す。

 整理しておくと、1983年に今日の「慰安婦問題」のきっかけとなる吉田清治という人が書いた 『私の戦争犯罪-朝鮮人強制連行』という本が出ます。この中で、1943年に韓国の済州島で、日本の軍人が赤ん坊を抱いたお母さんや若い未婚の女性を狩り立 てトラックで連行したという、いま一般に流布している「強制連行」が初めて出てきました。吉田清治がテレビに出た後、街に出て知り合いの食堂の女の子たちと話をしました、女の子たちにあのテレビを見たかと訊ねたら見たと言う。そして、「我々韓国人にとっては謝ってくれてありがたいけれど、あの人は帰国して大丈夫なんですか?外国に来て自国の悪口を言ったらよくないでしょう?帰国したら袋叩 きに合うのではないか」と言っていました。

 西岡は、それぞれの国がそれぞれに愛国心を持っているのだという、当時の韓国人には当たり前のバランス感覚があったのです。 戦争中を知っている韓国の年寄りは「慰安婦問題」で日本を責められると思っていないし、若い人たちも常識があるので日本にまで行って裁判を起こすというのはおかしいと思っていたのです。

 1989年に吉田清治の本は韓国で翻訳出版され、これを読んだ韓国の済州新聞の女性記者がその本に出てくる日時と場所について現地取材をします。すると、吉田の証言は全くのデタラメであることが判明し、女性記者は吉田証言を全面的に否定する記事を書いています。

 82年の第一次教科書問題の後、在日朝鮮人の指紋押捺の問題、韓国の大統領が 来日した際の天皇陛下の謝罪のお言葉の問題があり、そういう中で92年に宮沢 首相が訪韓することになりました。

 その宮澤首相訪韓の二年前(1989)、大分県に住んでいる青柳敦子という一主婦が韓国に行って「原告募集」というビラをまきます。西岡は、この主婦に実際にも会うが、「強制連行された人たち、慰安婦だった人たち、日本を相手に裁判をしませんか。費用は全部私がもってあげます」という内容です。
http://www35.atwiki.jp/kolia/pages/77.html
 
 その主婦は韓国では「原告」に出会えなかったのですが、帰国後、国際電話がか かってきて「やりたい」という人が出てきました。最初は徴用された人たちの遺族でした。しかし、徴用された人たちの遣族が裁判を始めたら、それをテレビで 見ていた元慰安婦の金学順というおばあさんが私も出たいと言ってきたのです。

 一方で、韓国では全斗換政権以降、対日歴史糾弾外交を進める中で、十年間教育 を受けてきた人たちがいます。その人たちは日本の植民地時代について、事実を 知っている人からすればバランスを欠いた、まるで暗黒の時代であったかのような印象を持っている。そういう若者たちは、日本の軍隊が突然、村に現れて十代 の少女を強姦して連れていったというイメージをすんなり受け人れてしまいます 。

 そういう中で、日本から火をつけたかたちでの裁判が始まり、慰安婦だったと名乗り出る金 学順が出てきたのです。 しかし、この金学順は四十円でキーセンに売られたと後にわかる(金学順の訴状には「十四歳の時に四十円でキーセンに売られた」と経緯が書いてある)。 つまり、「軍に強制的に連れて行かれた人」ではなかったのです。

 ここで問題なのは、この金学順のことを最初に報道したのは朝日新聞だったということです。朝日新聞の植村隆記者が、世界初のスクープとして報じました 。

 1991年8月11日付の朝日新聞(大阪版)は、金学順の名前はまだ出していませんが、「日中戦争や第二次大戦の際、『女子挺身隊』の名で戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた「朝鮮人従軍慰安婦」のうち、一人が 」名乗り出たと報じたのです。

 韓国の一番左派のハンギョレ新聞では、「生活が苦しくなった母親によって十四歳の時に平壌にあるキーセンの検番に売られていった」と書いてあり ます。 植村記者は韓国語もできるので、当然、こういう事実を知っていたはずなのに、書かなかった。

 さらに提訴後の記事の見出しには、「従軍慰安婦にされた朝鮮女性、半世紀の『恨』提訴へ」、「問われる人権感覚 制度の枠超え真の補償を韓国人従軍慰安婦の提訴」と打ち、朝日新聞は「わずか 17歳で慰安婦にさせられた」という展開にしていきました。

 最初の朝日新聞のスクープは、金学順が韓国で記者会見する三日前です。なぜ、こんなことができたかというと、植村記者は金学順も加わっている訴訟の原告組織「太平洋戦争犠牲者遺族会」のリーダー的存在である梁順任という常任理事の娘の夫なのです。つまり、原告のリーダーが義理の母であったために、金学順の単独インタビューがとれたという事情です。

 朝日新聞は、親に「身売り」された事実隠し、同じく朝日新聞の「慰安所への軍関与」という捏造記事という流れの中で、まず、当時の加藤紘一官房長官が「お詫びと反省」を発表しました。1992年1月13日です。 そして、宮沢首相が17日に訪韓し、盧泰愚大統領に8回も謝りました。

その後、西岡 力は「文塾春秋」の取材で、外務省の北東アジア課の担当課に面会を求め、次のような重要な点を訊ねたということです。

「宮沢首相は、権力による強制連行があったということを認めて謝罪したのか。 それとも、当時、日本にもたくさんいた貧乏のために身売りされた人たちの悲劇 に対して謝ったのか。どちらなのか。」と。 すると、担当者は「それは、これから調べる」と言ったのです。

「では、吉田清治の証言については、外務省はどう思っているのか」と訊ねたら 、「これから調べることだけれども、加害者が嘘をつくことがありますかね」と 言う。

 問題なのは、「これから調べる」ということについて、加藤官房長官、宮沢首相 が先に謝ってしまったということです。 韓国の一般の人たちは、大新聞である朝日新聞が報道し、テレビが毎日のように 報道し、日本の総理が韓国に來て謝ったわけですから、そんな事実があったと思ってしまう。年寄りの人たちが「慰安婦は問題にできない」と言っても、そちら のほうが説得力がなくなります。

 こうした流れが作られて、韓国のテレビドラマでは、平和な村に憲兵など(憲兵というのは軍を取り締まる 役割ですから、なぜ憲兵なのかわからないが)が現れて十代の女性を強姦し、ジープに乗せてさらっていったという内容のものがドラマのシーンで演出されるようになりました。

 他方、その当時、十二歳で慰安婦にさせられた人がいたと韓国の新聞が報道しました。 彼女は勤労挺身隊で日本に働きに来た人です。その彼女を送り出した教師が自分が送り出した子たちの何人かが終戦後、帰ってこないのでどうなったかと手紙を出して調べたら、京城に戻らないで田舎に行き全員無事だった。それを韓国の新聞が、「十二歳の少女も挺身隊に動員された」という記事にしたのです。題字はセンセーショナルに、印象付けられて想像をかき立て、事実から離れた想像の部分が色濃く刷り込まれていくようになります。

 当時、韓国では「挺身隊」=「慰安婦」となってしまっていた。十二 歳の少女まで性奴隷にしていた、けしからん、と韓国人は怒らせたのです。

 そこで、西岡 力は、その記事を書いた記者に会いに行って「あなたは勤労動員だと知っていたで しょう?なぜあなたの記事に勤労という言葉が一言もないのか」と聞いたら、彼 は「この問題には闇がある。だから私はこの問題はもう書かない」と言う。 その記者は「最初はけしからんと思って調べた。インタビューもたくさんした。すると、連れて行かれた後、ひどい目にあったという話は皆、たくさんする。しかし、どのように連れて行かれたのかという話になると、はっきりとしたことを言わない。よく聞いてみると女衒が絡んでいる。当時の朝鮮の農村に日本人が入れたと思いますか?」と言うのです。 記者は「だんだん調べていくうちに、戦争であれば起きるようなことなのだと思った」と言うのです。つまり、「慰安婦」に接見すると「強制」ではないことがわかってきたのです。

 また、金学順というおばあさんがなぜ出てきたのか、ということにも盲点があります。日本のテレビ局が何度も金学順にインタビューした時に、日本語のわかる女性コーディネーターがつきました。 西岡はそのコーディネーターの女性に会って話を聞いたのですが、彼女が「おばあちゃん、なんで出てきたの?」と聞いたら、金は「寂しかったんや。親戚も誰も訪ねてこない。食堂でテレビを見ていたら、徴用された人が裁判を起こしたと報じられていたから、私も入るのかなと思った」と言ったそうです。

 このようなおばあさんに接した高木健一弁護士は、その話を聞いているのですから、「あなたは当てはまりません。出ないほうがいいですよ」とかアドバイスしてあげるのが親切だったのではないでしょうか。相手は純粋な田舎のおばあさんです。何もわからない状態なのです。金学順は大変に率直な人だから、訴状にも「キーセンに四十円で売られた」と最初は書いているのです。

 このような中で、西岡が『文藝春秋』でそのことを指摘した後は、金学順は「キーセンに売られて中国に連れて行かれたのだけど、業者の人と北京の食堂でご飯を食べていたら日本の軍人が来て連行された」と証言を変えたのです。

 本当に韓国人女性のことを思っているのなら、日本から賠償をとれるかどうか本気で見てあげて、恥をさらさないようにしてあげるべきです。金学順のよう に、一度表に出てきてしまった人は、韓国社会にも偏見がありますから、そういう目で見られる。すると、出てきた人はとにかく「強制された」と言わざるを得なくなるのです。 自分の履歴を公開し、日本の反日運動家に利用され、批判され 、それによって証言を変えると嘘をついているんじゃないか、と言われる。西岡は朝日新聞に一番問いたいのはこの点だといいます。弱者の立場に立つと言いながら、女性の人権を守ろうというのではなく、弱者を貶めことをしたからです。

 西岡が『文塾春秋」で書き、秦郁彦が済州島で取材をし、さまざまな事実が発掘されて、段々に朝日新聞が「強制」と主張する根拠がなくなっていきました。

◆韓国の調査によって、挺身隊と慰安婦の違いが明らかに
 人間の記憶というの はいい加減なものです。聞き取り調査が事実を証明するためには裏付けが必要です。たとえば「挺身隊という制度で連行された」と彼女たちが言えば、「挺身隊というのはそういう制度ではありません」とか、「今は 挺身隊という言葉がありますが、当時はそういうふうには言っていなかったんじゃありませんか」と確認し、記憶を呼び起こしてもらわなければいけない。そういう聞き取り調査をしたのは、政府も含めて日本人にはいません。そこまで徹底した調査は韓国の学者がしていました。

 韓国のソウル大学の韓国史学者として著名な安乗直教授(現名誉教授)がキャップ となって挺身隊研究会というプロジェクトができ、当時「慰安婦」として名乗り出ていた四十数人の人たちに本格的な聞き取り調査を行いました。 その後、安教授らは調査の結果を「証言集」として本にまとめますが、その中に こう書いています。

 「調査を検討するにあたってとても難しかった点は、証言者の陳述が論理的に前と後ろが合わない場合がめずらしくなかったことだ。このような点は、すでに五十年近く前のことであって記憶の錯誤から来ることもありうるし、証言したくな いことを省略したり適当にまぜこぜにしたりすることから来ることもありうるし 、またその時代の事情が我々の想像を超越するものかもしれないという点もあった。

 この中でも調査者たちをたいへん困難にさせたのは、証言者が意図的に事実を歪曲していると感じられるケースだ。我々はこのような場合に備えて、調査者一人一人が証言者に人間的に密接になることによってそのような困難を克服しようと努力し、大部分の場合に意図した通りの成果を上げはしたが、ある場合には調査を中断せざるを得ないケースもあった。このような場合は次の機会に再調査することを約束するしかなかった」

92年、93年に日本が謝罪している最中でも韓国の学者は、「意図的に(証言者が)事実を歪曲していると感じられるケース」があったと書いているのです。

これは四十人を対象にしている調査でしたが、本にまとめることができたのは十九人でしかなかった。半分以上の人はは辞退したのです。しかも、その中でも自分で「強制」だったと言っている人は四人です。よくきけば、四人のうち、一人は韓国の釜山で「強制」され、もう一人は日本の富山県で「強制」されたと言っている。戦地でない所に軍の「慰安所」はありませんから、それだけでこの証言が成立しないことがわかります。
後の一人は、日本政府を相手どった裁判で訴状を出しているのですが、訴状では いずれもキーセンなどとして「身売り」されたと書いている。つまり、過去の証言と違うことを、言っているのです。この二人の証言者のうち、一人は金学順です。

この「証言集」と日本政府が行った聞き取り調査とは、だぶっている部分もあります。しかし、日本政府は誰に聞き取り調査を行ったかということを明らかにしていません。安教授の行った聞き取り調査の「証言集」を韓国の外務省の課長が日本の外務省の課長に「これに全部入っています」と、いわばお墨付きで渡しています。韓国が自信を持って渡した「証言」でさえ、このようなものです。

そして、吉見教授も和田春樹教授さえも、こうした調査によって、朝鮮人に対する公権力による強制連行は証明されていないと、後に書いてもいます。

 加藤紘一官房長官が謝罪をし、宮沢首相が謝罪をした後、韓国で「慰安婦問題」が過熱する中で、西岡は言い方があったはずだと考えます。「(民間に)慰安所というものがあって、貧困に窮する人たちが業者によって人身売買 させられたということはあった。そのような人権侵害については、道義的な責任は感じるし、当事者に対しては同情もする」と言えばよかったのです。

 安倍総理は、「(軍が)家まで乗り込んでいって人狩りをするような『強制』は証明されていません」ときちっと言っています。「河野談話」を継承すると、言っている中で、安倍総理はギリギリのことを言っているのです。もっとも、政府は新しい談話を出す前であれば、前の談話を踏襲しなければなりません。「 加藤談話」があり、「河野談話」があったので、政府見解を引き継ぐと言っているのです。

 西岡は「河野談話」を読んだ時、「強制」の定義を拡大したのだと感じましたが、 まだ片足は土俵に残っていると思っていました。 しかし、「河野談話」の中には、「慰安婦の募集については、軍の要請を受けた 業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たち の意志に反して集められた事例が数多くあり、さらに、官憲等が直接これに加担 したこともあったことが明らかになった」という一文があった。 これは権力による「強制」を認めたことになるのではないか。安倍総理はきちんとそこを説明しなければいけない。

「河野談話」が出て五年くらいたった時、中川昭一さんが会長となった「日本の 歴史教育を考える若手議員の会」が「慰安婦問題」の検証作業をしました。西岡も 出席していたが、外政審議室の人が出てきていたのでその人に、「この『 河野談話』の官憲等という記述は何なのか。この記述が問題だと思う」と話すと、「これはインドネシアにおけるオランダ人を慰安婦にした事例だ」と説明がされました。

 オランダ人を数カ月、慰安婦にした事例があり、その軍人らはインドネシア駐留軍の上部から「軍規違反で処罰され、慰安所は閉鎖」された。処罰されたということは、組織としての「軍の強制 」でないということです。しかも戦後には、その軍人らはBC級戦犯として死刑などになっています。 調べてみると、インドネシアでのオランダ人の事例が一件で、しかもそれは戦争犯罪だったということです。ですから、この一件しかなかったのだと、むしろ談話にも明記すべでした。 この事例であたかも組織だって「強制」したかのように受け取られるのは、正しくない解釈です。

 その後は、日本の民間グループが国連の場にこの問題を持ち込み、国連の公式文書で「性奴隷」ということになっていきます。 ここでも国連の人権委員会で吉田清治証言が引用されたのです。日本は国連加盟国ですから、きちんと公式に反論すればいいのにそれをやっていません。話が既成事実化して、それがアメリカに飛び火しました。アメリカの華僑と在米韓国人の反日ネットワークがまたたく間にできて、その後ろには韓国 北朝鮮と中国共産党があります。日本の国内にも、反日勢力との連携があるという関係です。

 今回のアメリカ、下院の決議について言うと、事実が証明されていないことにつ いて、アメリカの保守派までもが誤解をし、決議がされようとしているのに、加藤大使は決議を通さないでくれと根回しをしてはいるが、事実に踏み込んだ説明はできていないのです。

「日本は歴代の総理が謝っているということに対する事実誤認がある」ということを言っている。つまり、「謝ってない」と思われているのが事実誤認 だと言っているのです。「河野談話」から「村山談話」、歴代の総理がアジア女性基金にお金を出す時につけた謝罪の手紙を英訳して配っている。 しかし、安倍総理は「慰安婦問題」の事情をよく知って、「狭い意味での強制はなかった」と言っているので、このままでは他国から見れば歴代の総理は謝っているが、安倍総理から論旨を変えたと見えるようになります。公使館などの出先機関と安倍総理の発言がここまで食い違ってしまったら、ここは、やはり新しい談話を出して、国際的な誤解を解くべきだと西岡は主張するのです。

 安倍総理は、ここまで来た以上は政府一体となって問題を先送 りするのをやめて、国際的誤解を解くために全力をあげるべきだとの主張です。

出典:西岡 力 http://www.ianfu.net/opinion/nisioka.html

*上記の文章での敬称省略

**元朝日新聞記者の植村氏は、取材の経緯について、「挺対協から元慰安婦の証言のことを聞いた、当時のソウル支局長からの連絡で韓国に向かった。義母(妻・韓国人)からの情報提供はなかった」と話す。元慰安婦はその後、裁判の原告となるため梁氏が幹部を務める遺族会のメンバーとなったが、植村氏は「戦後補償問題の取材を続けており、元慰安婦の取材もその一つ。義母らを利する目的で報道をしたことはない」と説明する。当時、8月11日に記事が掲載された翌日、植村氏は帰国した。14日に北海道新聞のソウル特派員が元慰安婦の単独会見に成功し、金学順(キムハクスン)さんだと特報。韓国主要紙も15日の紙面で大きく報じた。

 植村氏は前年の夏、元慰安婦の証言を得るため韓国を取材したが、話を聞けずに帰国した経緯もあり、金学順との取材の詳しい経緯は、朝鮮半島問題を扱う月刊誌「MILE(ミレ)」(91年11月号)に書いていました。この時期、植村氏の記事への批判はまだ出ていなかった。活字が出版されて注目されることによって、購読部数をのばしたが、問題を複雑な溝をつくったことに対して、両国の関係をあくまでも改善していく意図や努力を続けていかなくては、片手落ちではないか。

http://ch.nicovideo.jp/ooguchib/blomaga/ar594152

posted by Nina at 00:00| 千葉 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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