2014年08月14日

映画『消えた画 クメール・ルージュの真実』

戦後69年目の夏になる間に日本は、戦地に兵士を送ることはなかった。しかし、その間にも世界各地で多くの紛争・戦争がおきて、日本が関わった戦争のそれ以上の人々が命を落としてきているのも現実としておきていた。その時代を告発する映画が、カンボジアの監督の手によってつくられ、話題になっている。



映画監督リティ・パニュは、幼少期にポル・ポト率いるクメール・ルージュによる粛清で最愛の父母や友人たちを失った。クメール・ルージュ(フランス語: Khmer Rouge、クメール語: ខ្មែរក្រហម、中国語:红色高棉)は、正式名称はカンボジア共産党で、かつて存在したカンボジアの政党。シハヌーク時代、反サンクムの武闘左翼勢力をさしてシハヌークがつけた呼称だ。その後、内戦時代を経て、他の共産党系勢力の名称との類似から混乱を避けるために指導者の氏名からポル・ポト派と言われた。

数百万人の市民がクメール・ルージュ支配下に虐殺され、奇跡的に収容所を脱出し映画監督になったリティ・パニュは「記憶は再生されるのか」というテーマを追求し、あの体験をいまに伝えることを自らに課してきた。2013年のカンヌ国際映画祭〈ある視点部門〉で上映、監督自らの過酷な人生を、土人形に託して描いた作品として絶賛されグランプリを受賞作『消えた画 クメール・ルージュの真実』。カンボジアの幸せな家庭に育ちながら、クメール・ルージュの支配により、たったひとり13歳でカンボジアを脱出するという、誰も経験したことのない人生を本作で初めて描いた。

「すべてのファシズムはウソから始まる」との言葉は、なぜ陰惨な歴史は繰り返されるのだろうかとの人類への問答である。リティ・パニュとフランス人作家、クリストフ・バタイユによって書かれたことばによって、犯罪と歴史の記憶を辿りながら、暴いていく。

冷戦が過熱する中で、中立主義をかかげるシハヌークの統治体制にかげりが見られ、ロン・ノルら体制内の右派勢力が台頭してくる。1970年3月18日、シハヌークの外遊中を狙い、米国を後ろ盾としたロン・ノルがクーデタを起こした。ロン・ノルの統治下、カンボジアは汚職による政治腐敗、内戦による国土の疲弊に苦しんだ。農村部ではベトナム戦争の余波による米軍の空爆によって村々は破壊され、反米反政府の立場からクメール・ルージュに参加する人々が増えた。特に若者の参加が急増した。都市は農村部からの避難民であふれかえった。クメール・ルージュは解放区を徐々に拡大し、ロン・ノル政府の支配域は都市部に限定された。1975年4月17日、首都プノンペンが陥落し、クメール・ルージュが政権を握る。

クメール・ルージュが統治した民主カンプチア体制は、当時のカンボジアの人口約700万人の内、約150万人が犠牲になったとして、その被害規模の大きさから国際社会の耳目を集めてきた。ポル・ポトを筆頭とするカンプチア共産党中央委員会は、毛沢東主義に基づいた政策を実施し、カンボジア経済を停滞させた。知識人は排斥され、私的所有権はなく、様々な伝統文化が禁じられた。クメール・ルージュが都市部に入城すると、都市部にいた人々は、すぐに農村部へ強制移動させられた。この時に都市部から移住させられた人々は「新人民」と呼ばれ、多くが過酷な労働条件の地域に送られた。一方4月17日時点でクメール・ルージュの支配地域に住んでいた人々は「旧人民」と呼ばれ、新人民と比べて被害は小さかったと言われるが、被害の規模は管区ごとに異なっているために一概には言えない。農村部では、性別と年齢に応じて集団化が進められた。これらは共産党を母体とし、国家諸機関を包括する組織「オンカー(クメール語で組織という意)」によって担われた。「オンカー」は子どもスパイを配置するなど、人々の生活を監視した。各地に政治犯収容所が行政単位に応じて作られ、「内部の敵」に対する粛清を行った。「内部の敵」には旧体制関係者だけでなく、知識人や「オンカー」を裏切ったとみなされた一般人も含まれていた。「S21」と呼ばれる首都プノンペンにある最高位の政治犯収容所では、ポル・ポトの側近はもとより、クメール・ルージュに長年参加してきた古参革命家も、「裏切り者」として殺害された。対外的には、親中・反越政策をとり、中国から多額の軍事支援や経済支援を獲得した。ベトナムに対しては、政権獲得の直後から度々国境衝突を繰り返した。全国で内部粛清が横行し、各地でクメール・ルージュから離反する幹部が増えた。1979年1月7日、ポル・ポトらによる粛清から逃れるためベトナムに渡ったベトナム国境付近の東部管区出身者を中心とするカンプチア救国団結戦線とベトナム軍の進攻により、民主カンプチア体制は崩壊した。

体制崩壊後、国外退避を求める人々はタイ国境沿いの難民キャンプへ向かった。これらの人びとも含めたインドシナ難民の受け入れは世界中で行われた。日本も定住枠を徐々に拡大し、インドシナ難民の受け入れを2005年末まで継続した。

上映映画館 http://www.u-picc.com/kietae/theater.html
posted by Nina at 00:00| 千葉 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック
カテゴリ
日記(3507)
ニオュ(0)
歴史(0)
chiba(60)