2014年06月28日

「花子とアン」のもう一人のヒロイン、柳原白蓮

現在のNHK朝ドラ「花子とアン」に出てくる、もう一人のヒロイン・蓮さまのモデルは、大正三美人の1人だった柳原白蓮だという。大正から昭和時代にかけての歌人で本名はY子(あきこ)は、白蓮事件でも知られる実在した女性で、いかに女性の一生が家長制度という名のもとに自分の意思を持つことも不可能だったのかということが分かる例だ。

Y子の父にあたる柳原前光は伯爵だが、母は前光の妾のひとりで、奥津りょうという名前だった。柳橋の美人芸妓は没落士族の娘だったのは、親が食いつぶして借金のかたに身売りされたというような維新に起きた多々ある明治女性の悲哀劇の一つなのだろう。

実は、白蓮は大正天皇の生母である柳原愛子の姪にもあたる血筋で、つまりは大正天皇とは義従妹にあたる、まさに伯爵令嬢だったから、注目される運命に生まれた女性だ。しかし、男性が妾を多数もつことが許容された時代に、お家の中の確執もある厄介な身の上でもあった。そのため、たびたび養子縁組や里子に出され、知らない間に結婚も決められた。女性の人生がこれほどまでに家長である男性の手に委ねられてしまうものかという、自分の意思表明は許されない時代であった当時の一例にすぎないのだろう。

生後7日目に実母から引き取られ、生母・りょうは1888年(明治21年)、Y子3歳の時に病死している。前光の本邸には、さらに側室の「梅」(元は大正天皇妃・柳原愛子の侍女)がおり、子のない梅はY子の引き取りを願っていたが、正妻・初子がそれを阻止すべくY子を自分の手元に引き取ったという。柳原前光の正妻・初子の次女として入籍されたが、華族の慣習として里子に出され、品川の種物問屋を営む家の乳母の「増山くに」と里親家族の愛情の元で下町の環境で育てられる。学齢となった6歳の時に柳原家に戻り、初子に華族の娘としてしつけられる。9歳で遠縁にあたる子爵・北小路隨光の養女となり、小学校も転校となる。

北小路家は夫婦の間の子がいずれも早世したため、父・前光の弟・隨光が養子となっていた。ところが、まもなく隨光が女中に男子(資武)を生ませた事から養子関係が変わり、Y子を資武の妻にする条件での養子縁組となったのだった。同年に父・前光が死去し、異母兄である義光が柳原家の家督を継いだ。

北小路家で養父の隨光により和歌の手ほどきを受けた。北小路家は経済的に苦しい事から養父母は女学校入学を渋ったが、Y子の強い願いにより、車ではなく徒歩通学を条件として実現した。1898年(明治31年)、13歳で華族女学校(現・学習院女子中等科)に入学。同居する資武は7歳年上で知的障害があったといわれ、思春期の盛りでY子が他の男と同席するだけで嫉妬して暴力をふるう事もあった。結婚相手である事など知らなかったY子は資武に恐怖して嫌いぬき、結婚を急がせる養父母に泣いて抗議するが、ある日資武に「お前なんか妾の子だ」と罵倒され自分の出生を知らされる。初子を実母と思い込んでいたY子にとっては、帰る場所を失った出来事だった。華族令とそれを元に定められた柳原家範という法の管理下にあるY子に選択の余地はなく、8歳の資武との結婚を承諾させられ、間もなく妊娠したY子は女学校を退学した。1900年(明治33年)、北小路邸で質素な結婚式が挙げられ、翌1901年(明治34年)、15歳で男子(功光)を出産。

功光誕生の半年後、養母・久子の提案で北小路家縁の京都へ一家で引っ越す事となる。まったく友人の居ない京都での生活は、子の養育は久子に取り上げられ、外で子供のように遊びながら家で女中に手を付ける夫とは夫婦の愛情も無く、Y子は孤独な日々だった。結婚から5年後、Y子の訴えにより事情を知った柳原家と話合いが持たれ、1905年(明治38年)、子供を置いていく条件で20歳で離婚が成立した。

しかし、「出戻り」のY子は柳原本邸に入れてもらえず、養母・初子の隠居所で暮らし、門の外に一歩も出る事のない幽閉同然の生活となる。挨拶以外にほとんど誰とも口をきかない生活の中、姉・信子の計らいで古典や小説を差し入れてもらい、ひたすら読書に明け暮れる日々が4年間続いた。その間に、再びY子の意向と関わりなく縁談が進められていた。結納の日取りまで決められるが、Y子は家を飛び出し、品川の乳母の家に走った。しかし、乳母の増山くにはY子の幽閉中に死去していた。家出したY子を信子が庇い、兄・義光夫妻の元に預けられる。

1908年(明治41年)、兄嫁・花子の家庭教師が卒業生であった縁から、東洋英和女学校(現・東洋英和女学院高等部)に23歳で編入学し、寄宿舎生活をおくる事となる。この頃、信子の紹介で佐佐木信綱主催である短歌の竹柏会に入門する。最初の結婚で華族女学校の中退を余儀なくされたY子には、再び学ぶことができる幸せな学園生活であった。女学校ではずっと年下の生徒達とも打ち解け、中でも後に翻訳者となる村岡花子とは親交を深め、花子に信綱を紹介した。

その後については、ドラマの展開のように気に染まぬ再婚をさせられるが、ドラマとは違い卒業はできた。
その再婚相手にも多数の妾と成さぬ仲の子供が多数いて、ドラマでは描ききれない複雑な関係が展開していたが、それも自分の意思ではどうにもなならに家長制度によってきめられてしまう時代だったからだ。再婚後も、妾の問題に苦しみながら生活するが、『解放』の主筆で編集を行っていた宮崎龍介が別府の別荘を訪れる。

龍介は7歳年下の27歳、孫文を支援した宮崎滔天の長男で、東京帝国大学法科の3年に在籍しながら新人会を結成して労働運動に打ち込んでいた。新人会の後ろ楯となったのが吉野作造ら学者による黎明会であり、『解放』はその機関誌であった。蓮子は夫がひいきにする芸姑を4千円(当時)で身受けして、妾にするという離れ業もしながら、婚家を出奔して龍介と一緒になる計画をする。後に「白蓮事件」と世間に言われる不倫事件(姦通罪は女性は死罪)だった。

1923年(大正12年)9月の関東大震災をきっかけに、駆け落ち騒動の最中に生まれた長男・香織と共に宮崎家の人となったY子は、それまで経験した事のない経済的困窮に直面する。弁護士となっていた龍介は結核が再発して病床に伏し、しかも宮崎家には父滔天が残した莫大な借金があった。裁縫は得意であったが、炊事洗濯は出来ないY子に代わり、姑の槌子が家・育児を引き受けた。Y子は小説を執筆し、歌集も出版、色紙や講演の依頼も引き受け、龍介が動けなかった3年間はY子の筆一本で家計を支えた。

1925年(大正14)、長女の蕗苳が誕生の頃、吉原遊郭から脱出した花魁が宮崎家に駆け込んで助けを求め逃げ込んだのを保護している。その後も娼婦の救済活動は続けられ、1928年(昭和3年)にも吉原から子持ちの娼妓が宮崎家に駆け込んでいる。苦界にあった女性達に白蓮は憧れの存在であった。この活動は暴力団に狙われる危険なものであったが、Y子にはかつて再婚した家で侍女を妾に差し出すという犠牲にした罪の意識があり、娼婦の救済はその罪滅ぼしもあったようだ。

小康を得た龍介は1928年(昭和3年)11月の第一回普通選挙に立候補するが、演説会場で昏倒し喀血して絶対安静の身となる。Y子は龍介に代わって選挙運動の演壇に立ち、色紙を売るなど選挙資金を作って夫を支えた。宮崎家を頼る労働運動関係者や中国人留学生、吉原から脱出した娼妓らを食客として世話をした。その他、生活が苦しい京都出身の華族の子弟を月謝が免除される学習院へ通わせるために家に住まわせてもいた。その中には北小路家に残してきた功光もいた。出奔事件以降『心の花』への投稿を断っていたが、1935年(昭和10年)6月に自らの歌の場として歌誌『ことたま』を刊行した。

戦後は、1946年5月にNHKラジオで子供の死の悲しみと平和を訴える気持ちを語った事をきっかけに、「悲母の会」を結成し、熱心な平和運動家として支部設立のため全国を行脚した。会は外国とも連携して「国際悲母の会」となり、さらに世界連邦運動婦人部へ発展させた。戦前の女性たちが耐えてきた歴史の一齣を「花子とアン」で知ることになったが、戦後の新憲法のもとで男女平等となった。叔母の柳原愛子は、明治天皇の正室の昭憲皇后との間には子が無かったもので、皇后の典待として何人も出産して大正天皇のみが成人したが早逝された。こうした男尊女卑ともいうべき、旧い因習と女性たちの教育機会・経済的に弱い背景による格差の解消を図るのはなかなか容易ではなかった。

晩年、夫・龍介の手厚い介護のもと、娘夫婦に見守られ、柳原白蓮は歌を詠みつつ穏やかに暮らした。1967年(昭和42年)2月22日、81歳で死去。












posted by Nina at 00:00| 千葉 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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