2014年05月16日

沖縄復帰42年

敗戦後、日本は連合軍(GHQ)に占領統治された。1952年4月のサンフランシスコ講和条約発効で、日本が独立後も、沖縄は米国統治下に入ったままだった。地元の青年団も復帰運動の中心的な役割を担った。
  
  当初、1950年(昭和25年)11月4日に奄美群島、沖縄諸島、宮古諸島、八重山諸島を四分割しそれぞれ群島政府を設置した。しかし同年9月に住民により選出された知事と議員らが日本復帰を公言した。その結果に不快感を示した琉球列島米国軍政府(以下軍政府と略す)は、翌年の1951年(昭和26年)4月1日に琉球臨時中央政府を設立し]、群島政府の権限は大幅に削減され、そして1952年4月1日に群島政府が廃止され琉球政府が創設された。また軍政府は1950年(昭和25年)12月15日に琉球列島米国民政府(USCAR:ユースカー、以下民政府と略す)と改称した。琉球政府には、常に民政府は絶対的な権力を持っていた。1965年(昭和40年)8月19日に当時の佐藤栄作首相が訪問し、「沖縄が日本に復帰しない限り、戦後は終わらない」と述べた。来沖した背景としてはベトナム戦争に対する反戦運動と復帰運動があった。沖縄は1972年(昭和47年)5月15日に日本国に返還されたが、基地撤去を望んだ住民は返還協定の内容に失望した。

 中根章さん(82)=沖縄市=は言う。「『復帰すれば日本国憲法に守られる』と運動に取り組んだ我々が、年を重ねても安閑としておられないのが沖縄の現状。ワジワジする(怒りではらわたが煮えくり返る)」

 中根さんは戦後、米軍基地でバーテンダーとして働いたが、軍の都合でクビになったこともあった。「人権どころじゃないさ、あのころは」。日の丸を掲げて街を行進し、米軍に「我々は日本人」というささやかな抵抗を示した。

 その後、青年団として復帰運動に関わった。米軍による土地の強制接収では米兵から銃剣を突きつけられた。59年に沖縄県石川市(現うるま市)の宮森小学校に米軍機が墜落して児童ら17人が亡くなった現場にも駆け付け、怒りで体が震えた。

 沖縄は1972年に復帰を果たし、今月15日で42年目をむかえた。社会資本整備も進んだ。だが、基地は残り、米軍関係の事件事故が繰り返される。「あのころと何が変わったのだろう」。そう思わざるをえない。

 「沖縄の民意は全く無視され、基地負担軽減どころか負担過重だ」。政府が普天間飛行場の辺野古移設を進め、新たな基地が建設されようとしている現状に、元沖縄開発庁長官の上原康助さん(81)=嘉手納町=は憤りを隠さない。

 復帰40周年の記念式典であいさつし、当時の野田佳彦首相、ルース米駐日大使にこう迫った。「民主主義は世論を尊重することが基本。なぜ両政府は県民の声をもっと尊重しないのか。発想を大転換して沖縄の過重負担軽減を断行すべきだ」

 約8分40秒にわたる「怒りの祝辞」に、会場からは盛んな拍手が送られた。だが、政府は「直言」を受け止めようとはしなかった。「むなしいというか、無念。寂しい」

 式典で「戦前、戦中、戦後の苦難の歴史を忘れてはいけない。その根源は残念ながら今も続いている」と訴えた。それから2年。「沖縄の苦難の歴史はますます重くなっている。ワジワジする」

 これらの取材からしてみると、柳宗悦が巻き起こした沖縄言語論争は、やはり沖縄の民衆の側にたった発言だったと思える。琉球統治から、日本に編入の経緯をもつ沖縄は、言語もあきらかに違っていたため、「一家をあげて日本語」なるポスターが島内各地に貼られたことまでもあった。柳宗悦は日本全国を民藝の調査であるくと、沖縄、アイヌ、台湾へも足を運んでいる。満州での調査は自ら行うことはなく、関係者のみで行われたというのは当時の国際間の微妙な立場を考慮した上なのかどうか、現時点の資料からはそれ以上は読み取れない。宗教哲学者としての倫理観を持ち合わせて、世の中を美で見ていこうとする。そのために危険思想だと当局に指摘されることもたびたびあった。沖縄の人々は、柳宗悦が島に来るときには歓迎したというのは、本土の文化人として対応してのことか、それとも理解者として受け入れての事なのか、論文の為にもさらに調査をしてみたい。

出典
毎日新聞 5・15・2014


posted by Nina at 00:00| 千葉 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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