平和思想という独創的な一点から柳に迫った、「複合の美」の思想 (中見 真理、岩波新書)を読書の秋に読んでいただけるようお勧めしたい。
著者は、日本人の生活に根づいた力強い平和思想とはいかなるものか。国際関係論を学ぶなかで、この「問い」に突き動かされた学究は、柳の多彩な活動を核として支えていた「思想の型」というべきものを長い時間をかけてつかみ、この思想の型に「複合の美」との名前を与えた。
「複合の美」を理解するためには、柳の思想の特徴を端的に示す文章をお目にかけるのが一番だろう。朝鮮総督府の建物増築のため、朝鮮王朝の正宮・景福宮の正門である光化門が取毀(とりこわ)されるのではないかと危惧した柳は、1922年9月の『改造』に「失われんとする一朝鮮建築のために」と題する文章をのせる。1910年に日本の植民地となった朝鮮の文化財保護の大切さを、本国の日本人が切実なものとして受け止めるのは難しいことだろう。ならば、柳は日本人に向け、いかなる言葉で訴えかけたのか。
「次のように想像して頂こう。仮りに今朝鮮が勃興し日本が衰頽)し、ついに朝鮮に併合せられ、宮城〔皇居のこと〕が廃墟となり、代ってその位置に厖大な洋風な日本総督府の建築が建てられ、あの碧(みどり)の堀を越えて遙かに仰がれた白壁の江戸城が毀されるその光景を想像して下さい」(柳宗悦『民藝四十年』岩波文庫)。そして、日本民芸協会を設立したのは1934年のこと。
柳が東洋への関心をもつようになる民芸運動への始めまりは我孫子時代にあったと考えてもいい。 我孫子に居住していた1920年に書かれた「朝鮮の友に贈る書」では、より明確に「私は仮りに日本人が朝鮮人の位置に立ったならばといつも想う」と書く。民芸への本格的な取組みがなされる前の段階で柳は、日本国民のすべてを戦慄させるようなレトリックを用い、日本の対朝鮮政策の再考を促していた。植民地が否定されてはいなかったこの時期において、支配者と被支配者の立場を入れ替えて想像するとの思想の型を柳が身につけられたのはなぜなのか。
ロシアのクロポトキンにはアナキズムの思想家として知られるが、地理学者の顔もあり、生物が進化できたのは弱肉強食の結果だけでなく、相互扶助の面も大きかったと説いた。助け合いは、生物学的にも意味があったとの知見に勇気づけられた柳は、さらに思索を一歩先に進める。
実は、中見真理氏も、我孫子に講演で着て頂いたことがあり、しみじみと柳の「複合の美」について語っている。当時には、博士論文としてまとめられた分厚い本だった「柳宗悦 時代と思想 」として複合の美の思想を著したが、今回の文庫本では手に取りやすく、分かり易くなっている。
2013年09月30日
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