OLC(オリエンタルランド)初代社長は、京成電鉄第5代社長の川ア千春だ。京成電鉄でも21年間トップの座に君臨し、京成グループの発展に努めた。
かつて尾張徳川家に仕えた絵師の家系にあって、従兄に川ア小虎、小虎の長女・すみの夫に東山魁夷など、親族に多くの画家がいる。千春自身も「油絵で薔薇を描かせたら天下一品というような才能を持った芸術肌の人物」であったという。
当初谷津遊園拡張の際にバラ園を新設する構想を練っていた(この事業は後に京成バラ園芸の設立につながる)時に、仲の良かった読売新聞社主の正力松太郎にも声をかけたのだと言う。そのバラ園に飾るバラを買い付けに訪米した際、ディズニーランドを訪れ、目をつけたのだった。川アは帰国後、レジャーランド計画には、アメリカのディズニーランドを招致するという明確な方針を出して実現へ向けて動いた。京成電鉄が、都心部 - オリエンタルランド(現在の舞浜・新浦安付近) - 船橋港 - 稲毛海岸 - 千葉港 - 千葉寺という新規鉄道路線(現JR京葉線の原型)を計画及び免許申請をしており、オリエンタルランド計画はこの新規路線の沿線開発の一つだった。
OLCが設立されたのは、1960年(昭和35年)7月1日、京成電鉄が千葉県浦安沖を埋め立てて、商業地・住宅地の開発と大規模レジャー施設(このレジャー施設の当時の仮称がオリエンタルランド)を計画、社長の旧友であった三井不動産社長に共同事業者として声をかけたのがきっかけである。元々当時の京成社長、川ア千春は自社のみで計画を遂行しようとしたが、銀行を含めて信用が担保出来ず、三井不動産などに声をかけた。これにより京成電鉄、三井不動産、朝日土地興業(船橋ヘルスセンター、後に三井不動産に吸収合併)の3社が均等に出資することでOLCは設立、京成電鉄本社内に事務所を設置し、初代社長に就任した。
埋立による土地の造成には、公有水面埋立法に基づき県知事の許可を得る必要があった。当時の千葉県知事は友納武人であり、三井不動産社長の江戸英雄と2人3脚で進んでいった。この時取られた方式は「出洲方式」と呼ばれる方法で、埋め立て事業費は不動産会社と県が2対1の割合で負担する。完成した造成地は県有地として千葉県が売却し、その益金は出資比率に応じて分配される。
千葉県浦安沖を埋め立てて、商業地・住宅地の開発および大規模レジャー施設の建設を行うことを目的として、三社による出資でスタート、「浦安漁民との漁業補償交渉」が第一の目的となった。補償交渉は難航が予想されていた。気性が荒い海の男が相手であることに加え、当時の浦安の漁業組合が二つに分裂していたことも、オリエンタルランドにとっては逆風だった。江戸秀雄は、相手の心をしっかりと掴むことのできる人間として、大酒を酌み交わし、腹を割って話し合うことが出来る交渉役として、高橋政知の酒豪ぶりを知り尽くしていたので、漁民との交渉役に適任である旨、川崎に紹介状を書いたのである。
当時、オリエンタルランドは名だけの会社だった。社屋はおろか専用の部屋も与えられず、京成電鉄本社内の片隅に三つばかりの机が置かれた場所が、「本社」であった。社員わずか三名、実働部隊はつまり「高橋」ただ一人という状態だった。
浦安沖の漁業補償は無事に決着すると、高橋は早速千葉県に掛け合い、埋め立て後の遊園地用地約330万m2の払い下げを申し込んだ。ところが、当時の千葉県知事であった友納武人が本家の米ディズニーランドでさえ約83万m2なのだからといって驚きあきれ、納得しなかった。千葉県は、もともとその埋立地のうち約130万m2を住宅地として売り出す予定でいたのだが、「埋立地で地盤が悪い」との前評判が立ってしまい、買い手がつかなくなっていた。泣く泣くオリエンタルランドにその分の土地を購入してもらうよう求めてきた。ようやく、商業地も含めた約380万m2の土地を払い下げてもらうことが決まった。完了した造成工事では260万坪の面積を埋め立てたが、上記の事情から次々と住宅地として処分され、最終的には63万坪余りが遊園地用地として残され、それもホテル用地などに取られたため、TDL開業時には純粋な遊園地として使用されている土地は更に少ないものとなった。
埋立地の払い下げにも見通しがたち、高橋が次に直面したのは、資金の手当てだった。当時のオリエンタルランドは名ばかりの弱小企業であったから、土地がまだ出来上がっておらず、担保も無かった。どの銀行も融資には難色を示した。そこで、埋め立て工事を県から委託してもらい、完成した土地を担保にして資金を借りようと考えた。この請願を千葉県議会に提出したところ、承認をもらうことができたのだが、県庁の担当者が首を縦に振ろうとしない。高橋は、友納知事に直接交渉に出かけることとなったが、この交渉は決裂した。前例がないことを理由に頑なに拒否する知事に対して、高橋は知事を怒鳴りつけ、知事室を立ち去った。
そんな時に、オイルショックの煽りを受け、京成電鉄の経営が傾き始め、融資していた銀行団から圧力がかかった。本業である鉄道事業へ専念するよう銀行団から求められた川崎は、オリエンタルランドの社長を降り、高橋が川崎のかわりに社長に就くことになった。
1983年3月には、「東京ディズニーランド竣工式」が執り行われた。
政治家への政治献金など、会社から出しにくい金は全て高橋の自腹だった。それを可能にしたのは、妻・弘子の実家である高橋家の財力である。書画・骨董が無くなっていくのを黙って見守っていた弘子も、さすがに、東京・渋谷にあった邸宅を売却されたときには、怒ったという。現在、その邸宅は、ニュージーランド大使館として利用されている。
友納と知事職を争うことになる川上紀一は市川市の川上家の入り婿だった。浦安市は、TDL、ディズニーシー
のシンデレラ城下町となって、夜な夜なの花火で夏の夜空が彩られ、そして千葉県一の裕福な財政を誇っている。明日は、そこの街でおきている裁判で、市民、学生たちと地裁の傍聴に行く予定だ。
出典:Wikipedia
2013年09月05日
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバック