「観光」の語源は、国の光を観るという易経にあるといわれる。その国の力を見て歩く、安寧に暮らしているか否か、見て回ることだった。
国民のたゆまざる努力、裏表なく男女ともに真面目に、勤勉に周りとの協調を大事にして、先祖や友人・知人に支えられていることに思いを馳せて、困難を乗り越えられる。そういうことをDNAに刻み続けてきた歴史のある国だから、今や遠く欧州、中東からも震災を経た日本に関心を持って観光に来るようになってきた。しかし、まだまだ観光立国には遠い。それは、国民が観光資源の多い国であるとの自覚がないことにもよる。歴史、文化に刻んできた日々の生活の重みを誇りにしてもいいはずだ。
そこで日本の歴史を紐解くと、土器の歴史において、日本が世界最古であるという。世界最古の土器が青森県で出土している箏から推測された。大平山元T遺跡出土の土器は、土器に付着した炭化物などを試料にしたAMS法炭素測定年代のサンゴによる暦年代較正値が、約1.7万年前であったことで、世界最古の土器であることが判明した。さらに貴重なのは、土器の内側に付着の炭化物から、食料の煮炊きに使ったものであることが分かった。つまり、これは人類最初の調理の痕なのである。日本における調理の歴史は、フランスや中国のそえより数千年長いということになる!
このような日々の暮らしにおいても工夫を重ねてきたことの分かる日本人らしさは、モノづくりにも反映されて、みることが出来る。内乱が終息してから一気に復興を遂げるカンボジアには、世界各国からODAが割り当てられ、特にここ10年ほどは建設ラッシュの様相を呈してきた。道路や橋などは優先度の高い社会インフラとして、各国が整備を進めているが、日本が造った道はすぐに分かるのだという。車で地方を視察するときに、揺れの少ない良い道だと思っていると、日本の国旗が表示されていて、日本のODAで整備された道であることを知る機会が何度もあった。
アジアでの土木事業の功績は、日本統治時代の台湾にも残っていて、大正期から昭和期にかけて農業水利事業として建設された烏山頭ダムに大きな貢献をした技術者・八田興一については現在でも台湾の歴史の教科書に登場して、台湾なら多くの人が知っているそうだ。八田は、台湾の人々が広大な嘉南平野で常に干ばつの危機にさらされていることを改善するために、巨大ダムの建設を計画し、予算を取り付けることに奮闘した。工事は1920年に着工し、1930年に竣工した当時世界最大のダムで有効貯水量が1.5億平方m、嘉南平野一体に張り巡らされた水路は1.6万kmに及び、それらの水利施設は現在でも稼働している。八田の墓は、烏山頭ダムを見渡せる高台にあり、毎年5月8日の命日には、日本と台湾各地から数百もの人が訪れ、たくさんの花が捧げられるという。2008年と2009年の命日には馬英九総裁も献花に訪れ、八田を称える演説をしている。
第二次大戦の敗戦で、外地にいた約65万人の日本人がソ連に強制的に連行され、強制労働をさせられた「シベリア拘留」で、日本人抑留者が中央アジアまで連行されていたことはあまり知られていない。ウズベキスタンには約2.5万人が連行された。拘留者たちは、過酷な労働を強いられ、道路、工場、運河、炭坑、発電所、学校などの社会基盤の建設にあたった。厳しい気候条件、十分な食事を与えられない厳しい収容所生活、そして就労させられた危険な仕事などの結果、病気や事故などで813人に日本人拘留者がウズベキスタンの地で命を落とした。
そうした抑留者の中から、ウズベキスタンのナヴォイ劇場の建設には約500人の日本人が携わり、過酷な環境下で約60人が事故などで亡くなったと伝えられている。その日本人たちの中には、旧満鉄や建設会社の技術者、そして関東軍の工兵たちなど、いわば最先端の技術者が多く含まれていた。入り口の天井付近などには細かい彫刻や模様があしらわれているが、それらも手先が器用で細かい作業を得意とす、日本人の技術者が作ったものだった。日本人として丁寧な仕事をして、見事な劇場を完成させた人達の記憶はウズベキスタンの人々に語り継がれている。日本人の拘留者たちは、そのような理不尽かつ非人道的な状況のなかであっても、手抜き一つすることはなかったからだった。
感心はしないが、モンゴルやトルコで、東日本大震災の地震の後でも原発の開発の依頼が締結したのは、そんなことがあってかもしれない。
2013年06月12日
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバック