幼くして光を失った宮城道雄であったが、その存在は、その後、世界中から脚光を浴びることとなる。宮城の経歴には、1937年には東京音楽学校(現在の東京芸術大学音楽学部)の教授に就任ということが加わった。日本の伝統的な楽譜ではなく、西洋の五線譜を使用して、初心者用の教則本を作成するなど、教育者としての立場からも邦楽の発展に心血を注いだ。 宮城はおよそ420曲を残したが、作曲技法はさまざまで、伝統に固執することはなかった。いつでも自由な発想で、新しい音楽に挑戦し続けていたことが、彼の言葉からも、その姿勢がうかがえる。
「とらわれるということの一面には、自ら亡びるということが暗示されているように思われる」
ハンデをものともせず、常識を打ち破り、新しい音楽の開拓者となった宮城道雄。今も日本の人々の心に感動を与え続けている。
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宮城道雄とルネ・シューメの演奏
失明というハンデに屈することなく、努力と情熱によって 新しい音楽を生み出し、邦楽界に光を与えた宮城道雄の演奏は今もレコード、CDで聞くことが出来る。 「宮城道雄」の名は聞いたことがなくても、彼が作曲した「春の海」は、一度ならず耳にしたことがあるに違いない。箏と尺八による正月の定番BGMとして、あまりにも有名な曲だ。
箏とは、奈良時代から演奏されている日本の伝統的な弦楽器。一般的には「琴」という呼び名のほうが馴染み深いかもしれない。後に日本の音楽に多大な影響を与えることになる、宮城道雄と箏との出会いは、彼の身に起こった不幸な出来事がきっかけだった。 1894年、神戸市の外国人居留地で生まれた宮城道雄は、生後1年も経たないうちに眼病を患う。8歳で完全に失明した宮城は、人の勧めで2代目中島検校(生田流)に弟子入りし、箏を学び始める。 宮城は早くからその才能を開花させ、11歳で免許皆伝。13歳の頃には、一家で移住した朝鮮で、箏や尺八を人々に教えていたという。 14歳で処女作「水の変態」を作曲。この曲を聴いた当時の朝鮮統監の伊藤博文は、宮城の才能に惚れ込み、東京での活動を支援することを約束したが、その直後に暗殺された。
大きな後ろ盾を失った宮城であったが、若干22歳で朝鮮箏曲界の最高峰である大検校まで実力で昇りつめ、意気揚々と日本に帰国した。しかし現実は厳しく、音楽で生計を立てることは困難を極めた。 極貧の生活の中で宮城は、妻と死別。試練が相次いで宮城を襲ったが、彼の音楽への情熱が失われることはなかった。やがて弟子が一人、二人と増えるようになると、彼の音楽人生にも転機が訪れる。ひたむきな努力と才能を認める人々の後押しもあり、1919年、宮城にとって初めてのコンサートを東京で開催。25歳で本格的に音楽家デビューを果たす。
ようやく邦楽界に活躍の場を与えられた宮城であったが、彼はその状況に満足することはなかった。宮城は、レコードや点字楽譜から独学で西洋音楽を学び、そのエッセンスを邦楽に取り入れようと試みた。これまでの常識にとらわれない宮城の斬新な音楽は、大正という新しい空気を求める時代とマッチし、多くの聴衆の心をつかんでいった。宮城が創る音楽は、「新日本音楽運動」と呼ばれるムーブメントを巻き起こし、邦楽活性化の起爆剤となった。才能があるだけでは、世の人には気づかれない。才能を開花させるまで磨き続けられる才能でなければならない。
私たちの我孫子も、もっと世に知られるべきと思う。今以上に成れる要素は多いと思うのだが、このまちの良さを伝える力がまだ足りないとも思う。
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