柳田国男での隠れたエピソード、悲恋を伺う機会となり、唱歌「ヤシの実」のできるまでの話とともに柳兼子さんの「ヤシの実」の歌声もききながら、質疑しました。
当時、我孫子にも住んでいたことのあった柳田国男(養子となる前であったので、松岡国男と称している)は1897年(明治30)7月、数えで23歳の国男は第一高等学校を卒業、9月に東京帝国大学法科大学政治科に入学した。長兄が医院を営む布佐で出会った少女に淡い思いを抱いていたことも、詩想をうながす一因となった。新体詩集『抒情詩』に収められた国男の「野辺のゆきき」はそうした体験を元にしている。しかしながら、少女が結核をわずらって、取手に転居療養となった。前年に両親を亡くし、気落ちしていたが、徐々に立ち直った。そのころ詩作への情熱はかえって募っていたように思える。
東京大学に入学した前後も、国男の詩作は衰えず、「文学界」に次々、新体詩や詩文を発表している。だが、少女とは悲恋に終わり、その絶望は詩作にも影を落としている。1898年(明治31)の夏、東京帝大生の国男はひと月ほど、心身の療養のために渥美半島の突端に位置する三河の伊良湖岬周辺ですごした。おもに宿泊したのは知人から紹介を受けた伊良湖村の網元の家である。だいぶたってから、友人の田山花袋がここに合流。その時の話を聞いた詩人仲間の藤村は後の「ヤシの実」の詩をつくることになった。
そして、次回(6/2)は、私が柳兼子さんについてお話しをすることになりました。
どなたでも聴講歓迎です、チラシを各地に配布しますので場所を確認しておいで下さい。
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