日曜日のNHK大河ドラマ『八重の桜』の視聴率がじりじりと上がってきているらしい。これを見て、教科書で習う歴史の数行には言い尽くせていないものがあるのだと知ります。特に、女性たちの表情が見えませんが、賢い母や妻の支え、口コミ情報は重要なものだったと分かります。
今回は佐久間象山が暗殺された時期のことでしたが、象山は吉田松蔭に影響を与えていた人物で、高杉晋作に会ってもらうように紹介状を書いていたのです。
手紙の内容は「この高杉晋作は自分を師と思っている男で、学問はまだ未熟だが、優れた資質に恵まれた若者である。3つの問いに答えてやって欲しい。1、幕府、諸侯どちらに未来を託すべきか。2、日本を回復するにはどこから着手すべきか。3、男子の死すべき場所とはどこか。」と書かれてありました。
吉田松陰死後1年後、晋作はこの紹介状を持って象山の元へ出向きました。若くて気の強い晋作は、象山が吉田松陰の死について「優れていたが焦り過ぎて命を落とした。」と言い、高杉晋作は「しかし象山先生は海外渡航に対して激励をしたではないですか。」と反論します。象山は、「行くというから励ましたまで、自らの意思で決めた行為を他人のせいにするのは愚かな事だ。長州人はそのような考えで国を語るのか。」と言い、象山の正論に沈黙をしたそうです。
そして、質問をします。「幕府、諸侯どちらに未来を託すべきか。」「日本はどこから立て直すべきか」の問いに対して、象山は「言うまでも無く幕府だ、幕府は二百年以上国政を動かしてきた、最良の方法は幕府を立て直すべき、でなければ多くの血が流れ、より時間を費やすだろう」と言いました。晋作は「出来ますでしょうか?」「朝廷は?」と言い、象山は「できぬでどうする。何も知らぬ書生が倒幕など騒ぎ立てるのは笑止。」「公武合体だ」と答えました。
晋作は「ならば攘夷の実行も必要ではないでしょうか?」象山は「攘夷など、外国の兵器がどれほど優れているか知らぬ無知な人間の考え、勝ち目の無い戦いに挑むでなく、国を守るなら国を開きつつ西洋の先進技術を吸収して自らを高めなければ何も実現しない。」と答えました。更に晋作「松蔭先生は攘夷論でした。」との意見に対して象山は「松蔭は私の説に従い開国論に賛成だった。だから海外に出ようとしていたのだ。松蔭は国を開き西洋の先進技術を学んで、その力で対等に向き合う事がまず第一だ。薄っぺらい攘夷論とは中身が違う。」「今外国に立ち向かうのは国を滅ぼす破滅の道だ。立ち向かうなら先進技術を取り入れ対等にになった後だが均衡が取れれば敵対関係になっているとは限らない。」と答え、晋作は言葉を返せなくなりました。 象山との対面はこの1回きりだと言われています。
そして、高杉晋作25歳、象山と会って3年後に外国軍に備える新しい概念の軍組織として民衆のエネルギーを結集する奇兵隊を結成して初代総督になったのでした。のちに、谷 潜蔵と改名。肺結核で29歳で没するさいに残したと言われるのが、「おもしろきこともなき世をおもしろく」の言葉とされる。
遺した手紙は160通余あり、そこから浮かび上がってくる人間像は、思いのほか律儀で繊細さに満ちたものでした。豪快、派手な行動のように見えて、内心は感情の起伏が大きく、人一倍悩みも深い青年の姿が窺われるものでした。
一方、現代の我孫子では新党の公認で、千葉選出の参議院議員候補が選出されるとの報道がありました。誰かと思えば、市議3期の久野晋作氏でした。名前が晋作は、覚えやすくて、挑戦者として活動されてきた成果が今問われのだと思う。二年前の2011年県議選は、まさかの大地震で選挙どころではなかったが、それでも我孫子の投票率を被災地でもあった県下では珍しく向上させていたのは、多少とも選挙に出馬して前回の3候補に終わらずに注目を得る結果を残したのだと私なりに自負します。ともかく、大枚が投じられる選挙戦は山あり谷あり、まさかの坂あり、楽ではないです。選挙という公道を通じて、訴えが広まり、明日の我孫子を輝かすことに繋がるとといいなと思う。
2013年04月01日
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