志賀直哉は1915(大正4)年から1923(大正12)年まで我孫子に居を構え、代表作といわれる「城の崎にて」「和解」「小僧の神様」「暗夜行路」(前編と後編の一部)などを次々に発表しました。中でも「和解」は、主人公順吉と父親との長年にわたる不和とその和解を描いた名作で、作品を読むと我孫子という地名が頻繁に出てくるのですが、志賀直哉自身も好きな作品の一つに挙げているとのことです。
坂上氏は、「和解」が他のどの作品よりも志賀直哉を理解するのに大切な作品であると同時に、若い人々に読み継がれてほしい一冊であると述べておられます。
そのほか、「十一月三日午後の事」にも我孫子の地名が多々出てきます。文豪と言われる作家の小説にこれほど我孫子が強く関わっているという事は、改めて驚きでした。我孫子では、志賀が我孫子はホトホト嫌気がさしたと書いていたのだから嫌っていたに違いないと判断していところがありますが、それはそれとして、子どもが叱られた時に「ママなんか嫌い」というような感想であって、小説としての表現があったとしても、それが作家の本心とは別なのです。作品が書けたこと、その作品が代表作、名作として残ったことはこの地への感謝は間違いなくあったはずだと坂上氏もそのように捉えておいでのようで、書くのに良い環境だと述べておられました。小説は創作上の脚色もあるのですから、たしかに一言一句を鵜呑みにしていけばいいのではなくて、そこで何を言わんとしたかを感じ取らせるかのひょうげんなのでしょう。坂上氏のいわれるように「我孫子によって書けたこと間違いない」のであって、それが佳き作品となったのであれば、感謝こそすれその反対はないだろうと納得しました。
志賀にとって父との葛藤を越えることができたのは、妻と子という新たな家族の誕生によって、折り合いを上手くつけて前にと進み出していけたことなのであって、学習院時代からの同人たちと共に家族もちになり、毎日行き来して友情を深め、生涯にわたって交流を続ける思い出の地であったことは、懐しい心の故郷となっていたことでしょう。我孫子が嫌になったというような一節があったとして、我孫子の全てを受け入れなかったのかのように思い込むのは早合点で、場所の思い出は小説にくっきり刻まれ残ったのには間違いないのですから、誇りにしていいのではないでしょうか。
むしろ、大正のころの彼らは実は今の感覚に近い考え方をしていたのではと思います。講演会を聞いて、もっと、もっと彼らの白樺運動について知りたいと思うようになりました。
【関連する記事】