●出発日: 3月10日(日)小雨催行
参加費・申込み金はありません。交通費、昼食代など各自実費で2000円くらいです。出発時間、その他、詳細お問合わせ、申し込みは ninakaizu@gmail.com メールください。




●見学場所:
1.勝海舟生誕地(墨田区・両国公園内)
勝海舟は長崎海軍伝習所で教えていた時代に竜馬がやってきて、欧米人と友好を深めることで日本の独立を守ることが出来るのだと諭したのは有名な話です。竜馬はこの後に海舟の弟子になって、命をかけて奔走し、内戦となるのを抑えたのです。海舟が東京下町の生れだと思いもよりませんが、出自は農民の倅であり、スカイツリー周辺だったということです。
また、勝海舟から多大な影響を受けた一人に、我孫子ゆかりの人・嘉納治五郎師範がいたこともあまり知られていません。元々、嘉納治五郎師範のお家は酒造・廻船の名家として業をされていましたが、嘉納家は幕府の廻船方御用達を勤め和田岬砲台の建造を請け負い勝海舟に設計、工事などを協力させて資金的にも援助を行っていました。嘉納治五郎師範は東大を卒業し、学習院に奉職したときに海舟を訪ねこう話したと言われています。
治五郎:「暫く学問に没頭しようかと思う」
海舟 :「学者になろうとするのか。それとも社会で事をなそうとするのか。」
治五郎:「後者です。その為しばらく必要な学問に集中しようと思います。」
海舟 :「それはいけない。それでは学者になってしまう。事をなしつつ学問をなすべきだ。」
海舟のアドバイスによって、教育者として、灘高の創設に関わり、東京師範学校(旧東京教育大、現筑波大)の校長を歴任、オリンピック招致、柔道を世界スポーツにするために貢献することになりました。
2.香取神社(墨田区)と亀戸天神(江東区)
両国の近くである亀戸には菅原道真をお祭りする天神様があります。九州の太宰府天満宮の神官、菅原大鳥居信祐は末裔であり、天神信仰を広めるため社殿建立の志をもち、諸国を巡りました。寛文元年(1661)、江戸の本所亀戸村にたどり着き、元々あった小祠(しょうし)に道真ゆかりの飛梅(とびうめ)で彫った天神像を奉祀。これが亀戸天神として世に知れる始まりとされています。都内でも藤の花で有名ですが、天神様といえばもちろん梅の花とは切っても切れないご縁です。当日は梅まつりと骨董市も行なわれて賑わいますので、麗かな春を一緒に愉しみましょう。香取神社は、隠れた梅の名所です。120本もの梅が春の香りを漂わせています。
3.東博(台東区・上野公園)の特別庭園公開
東博140周年を記念した数多くの企画が、いよいよ3月で一巡。近代日本における美術コレクターの多くは大実業家、著名な茶人であった場合が多く、東博への寄贈品もそうした人物からでした。柳宗悦は、関東大震災の再建中の東京帝室博物館に、蒐集した民藝品の寄贈と展示室の設置を申し入れていましたが、断られた為、官に頼らない美術館設立の決心を固め、日本民芸館を作ることとなったのでした。
日本初の西洋美術館としては、大原美術館の開館が1930年で最初でしたが、その以前から白樺派同人たちはロダンの彫刻をロダン本人から直送されて美術関係者に注目され、美術展を何度も開催しており、その最たるものは1917年に白樺美術館を計画して募金活動を展開していたことです。柳宗悦の妻・兼子も、何度も独唱会を開いて寄附をおこない、その金額は白樺同人の中でも目を見張ります。柳は、白樺美術館を断念した同人たちの意思を汲むかのように、1924年(大正13年)に朝鮮民族美術館を恵福宮(ソウル)に開設、また柳と昵懇となる大原とは例の白樺派の同人たちロダンの彫刻を寄託し、大原美術館は彼らの果たせなかった白樺美術館の意思を汲んでいました。
また、柳はこの後の1928年に上野公園で開催された御大礼記念国産振興博覧会で、民藝運動の同人と諮り「民藝館」を出品しました。都市に住む中産階級に新しいライフスタイルを提示するためのモデルルームというような設えのもので、その什器には同人作家の品や日本各地で作られた民藝品が選ばれました。博覧会終了後は、民藝運動の支援者であった実業家の山本為三郎(当時アサヒビール社長)がこの建物や什器を買い上げ、大阪・三国の山本邸内に移築して「三国荘」となっていました。
・・・・・・追記・・・・・・・・・・
嘉納治五郎の妻(須磨子)も海舟との関係は親密です。須磨子の父・竹添進一郎は朝鮮の甲申政変(1884年に起きた閔氏政権打倒のクーデター)の時の日本国公使であり、履信(長男)を養嗣子として竹添家を継がせています。竹添進一郎は、27歳の折に藩命により江戸を訪ねた際には勝海舟に会って、国家大経を論じその見識の深さに海舟を驚かしめ、以後親しく交わったとされています。甲申政変には金玉均、朴泳孝らと共に尹致昊(ユンチホ)(1864〜1945)が加わっており、柳宗悦は尹致昊にも対面(1920)していることも分かってきています。海舟の東洋和平の思想が、叔父の治五郎から柳宗悦にも反映されていると考えられます。
柳宗悦が著わした『朝鮮とその藝術』には、こうした身近な人たちの影響による歴史認識の背景も大きいと考えられます。妻となる兼子も「柳」という名前が、一文字であったことや、学習院を首席で卒業して東京帝大進学する青年であったことが印象的に記憶されるが、柳の父・柳楢悦は海軍創設時からの和算家として海図を創る上で重要な人物であり、海軍では柳楢悦を抜きに語ることはできないと言われる人物で、早逝されなければ爵位に叙される立場だったと言われていたそうです。
勝海舟の談話:
「しかし朝鮮を馬鹿にするのも、ただ近来の事だよ。昔しは、日本文明の種子は、皆朝鮮から輸入したのだから。特に土木事業などは、盡く朝鮮人に教はつたのだ。何時か山梨県のある處から、石橋の記を作つてくれ、と頼まれたことがあつたがその由来記の中に「白衣の神人来たりて云々」といふ句があつた、白衣で、そして髭があるなら疑もなく朝鮮人だろうよ。この橋の出来たのが、既に数百年前だといふから、数百年も前には、朝鮮人も日本人のお師匠様だつた。」
「日清戦争はおれは大反対だったよ。なぜかって、兄弟喧嘩だもの犬も食わないぢゃないか。たとへ日本が勝ってもどうなる。支那はやはりスフィンクスとして外国の奴らが分からぬに限る。支那の実力が分かったら最後、欧米からドシドシ押しかけてくる。つまり欧米人が分からないうちに、日本は支那と組んで商業なり工業なり鉄道なりやるに限るよ。一体支那五億の民衆は日本にとって最大の顧客だ。また支那は昔時から日本の師ではないか。それで東洋の事は東洋だけでやるに限るよ。おれは維新前から日清韓三国合従の策を主張して、支那朝鮮の海軍は日本で引受くる事を計画したものさ。」
勝海舟(江藤淳、松浦玲編)『氷川清話』講談社学術文庫、269頁。
参考HP
http://tkyburabura.web.fc2.com/people-katsu/people_katsu.html
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