スポーツは教育の一環であり、教育者としての功績が一番でしょうが、「柔道の父」、また「日本の体育の父」と称される為、諸流派を極めた柔道の達人であったころから世界のスポーツとしての柔道を世に知らせたのは嘉納治五郎であったのは間違いありません。遂には、スポーツの国際大会を日本で開催ということのためにオリンピック招致を働きかけるために海外へ出向き、得意の英語で弁舌して各界の人をうならせ感動をさせて東京での開催を確約させます。残念なことに、その帰路に船の中で亡くなりますが、それは嘉納治五郎らしい最期だったのではないでしょうか。戦前の話ですから、飛行機でひと飛びと言う時代でないので、行きも帰りも大変なご苦労が分かります。1938年(昭和13年)のカイロ(エジプト)でのIOC総会からの帰国途上の5月4日(横浜到着の2日前)、氷川丸の船内で肺炎により死去(遺体は氷詰にして持ち帰られた)。77歳没。生前の功績に対し勲一等旭日大綬章を賜る。墓所は千葉県松戸市の東京都立八柱霊園に在る。
夢を実現する姿勢は生涯変えません。頻繁にきた我孫子別荘から、手賀沼を眺めて、オリンピックのボート競技を開催しようと考えておられた・・・・。これは、夢想家というか、教育者とは自身も常に夢見る人なのでしょう。つまり、嘉納治五郎にとっての夢とはみんなの為に叶えるもののようでした。
我孫子には、こうした土地にゆかりのある人を調べて質の高い研究をされている方々がかなり多くおられます。中でも、「我孫子の文化を守る会」の方々の活動は素晴らしいものがあり、ネットを活用してご自身の労作を惜しげもなく公開されているのです。そのお一人、楫西雄介氏の「葭の髄から」を読むと嘉納治五郎の人となりに惚れこんで、綿密な調査をされていまして驚愕しました。下記はその一部ですが、ほんとうに嘉納治五郎の偉大さを知るところとなります。柔道界の不祥事を嘉納氏は出て来て一喝したいと思われていることでしょう。

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嘉納治五郎の漢籍の素養の深さは尋常なものではありません。それも道理で、嘉納の父・次郎作まれしば希芝は、近江国坂本日吉大社の神官で且つ和漢洋に通じた学者であった正三位・生源寺希烈の四男(一説には次男)で、父から十分に学問を仕込まれ、絵画も良くした教養人でありました(戸川幸夫『小説嘉納治五郎』)。
しかし嘉納家の養子に迎えられたこの父親は、公私頗る多忙で家のことはほとんど顧みる暇がなく、嘉納六歳の時に山本竹雲なる画家、あるいは山本なる医者の家に通わせて習字や漢学を学ばせます(嘉納治五郎『回顧六十年』)。10歳の時、母親が死亡して東京の父親に引き取られた嘉納は両国の成達書塾に入り、生方桂堂のもとで書道と漢学を修めます。桂堂は嘉納の人物の卓越性を見抜いて特別に心を用いて訓育し、四書五経の素読は既に国許で習得していたので、国史略、日本外史、十八史略、日本政記と順を追うて素読を授け、書の方は一日必ず3帖(半紙60枚)は丁寧に習字せしめたといいます(前出『嘉納先生伝)』)。
嘉納の書の巧さと漢籍の素養は、これら少年時に育まれたものなのです。
嘉納が別荘を構えたわが我孫子にも、嘉納書額は次の5面が残されています)。
一.「力必達(チカラヒッタツ:ツトムレバ必ズ達ス)」
書号は「進乎齋」で、我孫子第一小学校の体育館に懸架されています。
語句の意味は森本説によれば、中庸の20章の要約をした嘉納の造語と思われます。学習院柔道部と京大柔道部の道場には同じ額が架かっています。嘉納の高弟・西郷四郎がモデルといわれる富田常雄『姿三四郎』(下巻「不借の章」)の中にも、三四郎が矢野正五郎(嘉納治五郎)の書いた『力必達』という額を掲げた紘道館(講道館)道場を懐かしむ場面があります。
二.「以人為鏡(イジンイキョウ:人ヲ以テ鏡ト為ス)」
書号は「歸一齋」で、我孫子第一小学校の玄関に懸架されています。語句の意は、ネットの検索により、中国唐時代唐高宗の名相魏徴の名言「以銅為鏡 可以正形 以人為鏡 可以正身」(銅ヲ以テ鏡ト為セバ形ヲ正スベシ、人ヲ以テ鏡ト為セバ身ヲ正スベシ)に基いていることがわかりました。
三.「擇道竭力(タクドウケツリョク:道ヲエラビテ力ヲツクス)」
書号は「歸一齋」で、市役所の市長室に懸架されています。最初の二文字が判読できず、いろいろ識者に当って最後に秘書室よりメールで教えていただきました。この語句の出典は検索不能で、嘉納の造語と思われます。
四.「従善如流(ジュウゼンジョリュウ:善ニ従フコト流ルルガ如シ)」
書号は「歸一齋」で、角松旅館の客室に懸架されています。語句の意は、「善いことに従うのが水の流れのように速く、自然でとどこおることがないこと(『成語林』)」で、平安時代初頭に源為憲が道長の子・頼通のために書いたといわれる『世俗諺文』ということわざ辞典の元祖に登場します。『世俗諺文』には、現在のことわざ辞典にも載っている「良薬口に苦し」「千載一遇」などがすでに記載されていました。出典を辿れば『春秋左氏伝』で、斉の桓公がそういう人となりであったといわれます。
五.「三樹荘(サンジュソウ)」
書号は「歸一齋」で、三樹荘跡、村山正八氏邸の玄関階段上に懸架されています。「三樹荘」とは柳宗悦の旧邸、邸内に椎(スダジイ)の古木が3本屹立しているところから嘉納が命名して、書額に仕立てたものです
嘉納治五郎という人は書家としても一流を究められた人で、雄渾闊達の書風に揮毫の依頼はひきもきらず、その書額は今も全国に残されています。
嘉納の書額と書号については、横山健堂氏(『嘉納先生伝』昭和16年4月刊)と森本角蔵氏(『嘉納先生揮毫の語句の解説』雑誌「柔道」昭和26年5月〜27年11月号掲載)に詳しく、両氏によると、揮毫の語句の一部だけでも50余り、戦争前に全国の道場、学校に掲げられていた書額は合計226面を数えたといいます。
嘉納治五郎(以下、私稿では師範と呼ぶ)はこの別荘を特に晩年はたいそう気に入っていたようで、年譜(『嘉納治五郎大系第十三巻』)には大正十四年頃から亡くなる前年まで、「我孫子で静養」「家族と共に我孫子へ」「夫人同伴で我孫子へ」「孫たちが我孫子に来訪」「我孫子で越年」という記述が各年数回の頻度で現れる。
師範が別荘地を購入したのは、当時の土地台帳によれば明治四十四年十二月二十一日が最初で、以後大正二年まで逐次買い増しを行なっていることからみれば、別荘建築はその前後であろうと推測される。道一本隔てた隣地に姪(師範の姉・勝子の娘)の柳直枝が住むことになったのは、師範が呼び寄せたのであろう。夫に死別した直枝が転居したあとに、直枝の弟(師範にとっては甥)の柳宗悦が新妻の兼子を伴って移ってくるのは、大正三年秋のことである。喜んだ師範は、椎の三本の大木があることに因んで、柳邸を「三樹荘」と名づけて書額を贈っている。
別荘地を購入する二か月前に二万余坪の用地を手当てし始めたことは、当時の土地台帳に記録されている。学園建設工事も進められ、校門予定地に到る並木道までが完成したことも目撃されている。しかし工事は中断され、学園は農園に転用されたまま、師範の没後は手放され住宅地として分譲された。いま、閑静な住宅地となった白山地区で、往時の農園はおろか学園の痕跡を偲ぶものは何一つ残されていない
師範は克明に英文日記をつけていたので、もしイートン校を訪ねたとすれば日記に記載されているはずだが、不幸にして現在は日記の閲覧が許されていないため、この事実は検証できないでいる。
東氏の論文の主眼は、ハーンと嘉納の熊本時代の関係を、柔道という新しい視点から捉えようとするものですが、後半では、ハーンが遺した書簡を通して、最初は極めて良好であったハーンの嘉納に対する感情が次第に悪化してゆく推移が克明に綴られています。
この推移を東氏は西田千太郎に宛てた7通の書簡でたどります。
かいつまんで紹介すれば、
「嘉納氏は、…私の知っている如何なる日本人よりも、英語を話すこと、書くこと共に、一層上手です」(1891年、月日不明)
東(ひがし)憲一氏の『熊本における嘉納治五郎とラフカディオ・ハーン』(1995東京外国語大学論集51)と題する小論文(B5版16頁)からでした。東氏は東京外国語大学の教授で専門は「武道論」、嘉納治五郎研究の第一人者といわれます。
周知のごとく、ハーンと嘉納との関わりは熊本で生じました。
1891年(明治24)11月、ハーンは松江を引き払って第五高等中学校の英語教師として新妻セツを伴って熊本に赴任しますが、そのハーンを招聘したのは、当時の五高校長、嘉納治五郎でありました。このことは嘉納自身が自伝の中で五高時代を振り返って、
「学校長として自分のしたことは数多いが…ラフカディオ・ハーンを島根県中学校の教師から抜いて招聘したことは特筆すべき一事である」
と、些か得意げに記しています(『嘉納治五郎大系第十巻』)。
私にはハーンの赴任時に校長の嘉納みずからが熊本駅まで出迎えに行ったというほのかな記憶があって、それを確かめるべくネットを渉猟していたとき、たまたま東氏の論文に行き当たりました。私はさっそく、不躾にも氏に直接メールしてこの論文を郵送してもらったのでした。
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なお、柔道の場合で師範とは「嘉納治五郎」一人のみを指し、他の武道における師範とは異なるということです。
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