先月、韓国で柳宗悦の朝鮮芸術論を深く分析した新刊「柳宗悦と韓国」が出版された。柳宗悦は、嘉納治五郎の甥にあたり、2歳で父親がなくなった為、父親代わりのような関係であった。柳夫妻が結婚してすぐに嘉納の別荘の隣に住むことになった。宗悦の姉妹両方の夫が朝鮮総督府、仁川総領事館に勤務する関係があり、少年期から自然と朝鮮に関心を持つことなっていった。さらにひも解くと、明治維新の前後から柳家と嘉納家は勝海舟を通じてつながりがあり、そのため柳宗悦の母親・勝子の名は勝海舟が嘉納家を訪問した際に生まれた事にちなんでつけられたという経緯まであるそうです。(因みに、勝海舟と柳宗悦の父親が長崎海軍伝習所の同志、加納治五郎の父は伝播所のスポンサー的立場。後に勝は哲学館(現:東洋大学)設立にも尽力し、嘉納治五郎、柳宗悦もその講師となる。)
柳宗悦は、とうとう兼子夫人、友人らの協力を得て、朝鮮の芸術品を保護するためで朝鮮民族美術館を設立し、また総督府により古宮・景福宮の光化門が取り壊されそうになると、これに反対する文章を発表した。
「朝鮮の全民が骨身に感じるところは限りない怨恨である、反抗である、憎悪である、分離である。独立が彼らの理想となるのは必然の結果であろう。彼らが日本を愛し得ないことこそ自然であって、敬い得ることこそ例外である」――。
1919年、朝鮮半島で三・一独立運動が起こった約2か月後の5月20日から24日にかけ、読売新聞に「朝鮮人を想う」と題するこのような文章が連載された。この文で、朝鮮総督府による朝鮮人弾圧や日本語教育などの同化政策を批判し、三・一独立運動の正当性を訴えたのが、当時、我孫子に住んでいた柳宗悦(1889〜1961)だった。その二日後、風のない日だったが、柳邸内に築かれたリーチの工房が焼失してしまったと、志賀の文章にある。当時は、柳邸には特高警察の見張り、尾行も頻繁だったと兼子は証言する。我孫子周辺は陸軍演習地だった(志賀直哉「十一月三日の午後の事」に詳しい)。
その後、詩人の崔夏林(チェ・ハリム、1939〜2010)は、1974年6月に発表した文章で「柳は(朝鮮と朝鮮の工芸品に)愛情を持ってはいたが、その愛情を正しく活用しなかった」と指摘した。これを機に、韓国で柳の朝鮮芸術論も日本の植民地支配を正当化した考えだったとの主張が出てくる。
今回、出版された「柳宗悦と韓国」では、そうした柳に対する断片的な評価を控え、柳本来の朝鮮芸術論を深く分析しようとしている。執筆に加わった韓国と日本の研究者らは、柳自身に対する研究だけでなく、柳と朝鮮芸術界の関係、柳と日本芸術界の関係を比較・分析し、植民地時代における日本知識人の朝鮮認識を解き明かそうとの試みだと評価されている。
参照HP
yahoo 聯合ニュース 1月10日(木)21時32分配信
2013年02月06日
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