26日、東京・永田町の一等地にあった三宅坂の社民党本部の引っ越し作業が行われた。1964年に旧社会党の本部として建設、半世紀近く政治の動きを見守って、これまでは社民党本部が入ていった。当時、江田三郎社会党書記長(江田五月元参院議長の父)の主導で国有地を借り上げて社会文化会館として建てられたもので、1階ホールには浅沼稲次郎元委員長の胸像が党のシンボルおして置かれていた。
文化会館が面する坂にちなんで「三宅坂」とも呼ばれてきたビルは地上7階、地下1階で延べ床面積は約2000坪。5〜7階の688人収容の「三宅坂ホール」は外部のコンサートや集会にも貸し出された。このうち約400坪を党本部として使ってきた。しかし、東日本大震災で一部が壊れたホールが閉鎖されるなど、耐震性不足が分かり、昨年11月に移転方針を決めた。移転後は1億数千万円かけて解体して更地にして、国有地の土地を国に返還する。
ところが、浅沼氏の胸像と台座を合わせた重さは2〜3トンほどで重すぎるため、28日には間に合わない見通しになった。新しいビルには重さでエレベーターで運び上げられず、電気配線のため二重になっている床も重さに耐えられないという。そこで、約110センチの石の台座から、約70センチの胸像を分離して移設することを検討している。浅沼氏は1960年、演説中に刺殺され、4年後の64年の本部ビル建設の際、胸像が設置された。
社民党は、昨年末の衆院選で公示前の5議席を2議席に減らし、現在の所属議員は参院4人と合わせて計6人だけ。移転先は首相官邸近くの民間ビルで7階約200坪のフロアを借り、28日から東京・永田町ので業務を始める。社民党の福島瑞穂党首は記者団に「(今後の)新しい社民党を見てほしい。憲法を変えさせない要として踏ん張りたい」と語った。
出典:
http://mainichi.jp/graph/2013/01/26/20130126k0000e010213000c/001.html
Wikipedia 、他
■思い起こせば土井ブーム、その盛り上がりと凋落
社会党の歴史は、まさに紆余曲折だった。退潮がとどまらず「新宣言」決定後も、1986年夏のダブル選挙(第38回総選挙・第14回参議院選挙)は大敗(衆院で112から85)し、退任した石橋委員長の後継に土井たか子氏が就任、議会政党としては日本初の女性党首が誕生した。土井氏の人気と女性候補(「マドンナ」と呼ばれた)を積極的擁立など女性層を中心とする選挙戦術を展開し、消費税導入やリクルート事件、農業政策に対する不満を吸収した。1989年の第15回参議院選挙では46議席を獲得。このとき自民党は36議席しか獲得できず、連合の会と共に、自民党を非改選を含めても過半数割れに追い込み、改選議席で自民党を上回った。
土井氏の個人的人気が如実に見られ、この開票速報番組の中で、「山は動いた」という名言を残し土井ブームと呼ばれた。この際に消費税撤廃を公約とした候補者が、参議院において消費税廃止法案を提出・可決したが、衆議院において廃案になったため実現しなかった。
いよいよの1996年1月の村山内閣総辞職後、同月社会民主党に改称した。その年の3月には新党として第一回大会を開催、日本社会党の名称は消滅した。この村山内閣時の路線転換に批判的な議員、党員の一部は、離党して新社会党を結成した。
幹部候補生と目された前北海道知事横路孝弘は民主党を選んだ。一方、村山ら約半数の議員は社民党に残留し、土井たか子を党首に復帰させ、第41回総選挙に臨んだ。支持労組の大半は民主党支持に転じたが、地方組織のかなりの部分は社民党に残った。総選挙の結果、社会民主党の獲得議席はわずか15議席となり、55年体制下、一貫して保っていた野党第一党としての立場を失った。
2012年11月15日、 社民党による政策実現に疑問を持った阿部知子が離党届を提出し日本未来の党に合流した。また、第46回衆議院議員総選挙の陣頭指揮をとるはずだった幹事長の重野安正が11月18日、脳梗塞で入院しているため、出馬断念に追い込まれた。なお社会党時代から当選していた渕上貞雄が2010年参議院選挙をもって引退した事により、社会民主党に社会党所属経験者の国会議員はいなくなっていた。
総獲得議席数は小選挙区・比例各1議席ずつの合計2議席と、公示前の半減、阿部離党前と比すと3分の1に減少。比例代表における得票率は2.3%(前回総選挙は4.27%)、得票数は142万票(同300万票)とほぼ半減した(11ブロック中6ブロックで得票率が有効得票数の2%に達せず、新聞広告公費負担から外れた)。
2013年01月26日
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバック