2013年01月19日

日本福祉の母・石井筆子

新島八重を取り上げたNHK大河ドラマが好評だ。福島の会津若松、白虎隊の鉄砲指南もしたという、破格の活躍をした女性だが、歴史の裏には多くの人々の隠れた努力があって成されていくものであるとはいうものの、その中でも女性の力は歴史の記録は漏れてしまいがちだ。例えば、当地の柳兼子もその一人だし、また石井筆子もそうした一人なので、ネット検索で調べたことを掲載してみたい。

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数年前、身障者の活動をされている方から、石井筆子の自主映画をするので是非見てほしいと誘われた。全く知らない女性だったが、チラシをみてみると興味がわいた。

石井筆子(文久元年4月27日(1861年4月27日) - 昭和19年(1944年)1月24日)は、日本の近代女子教育者の1人である。日本初の知的障害者福祉の創始者の一人。肥前国大村藩士の渡辺清・ゲンの長女)父・清は幕末から明治維新にかけての志士で、明治政府では福岡県令や元老院議官等の要職を歴任し、男爵に叙せられた。筆子の叔父・渡辺昇も同じく幕末から明治維新の志士で坂本龍馬と親交を持ち、薩長同盟の周旋をした功労者である。渡辺汀は弟(父の養子)で滝乃川学園の3代目学園長である。

筆子は同郷の高級官吏・小鹿島果と結婚するが、生まれた3人の娘のうち2人は知的障害があり、あとの1人は虚弱で出産後ほどなく死亡した。当時の世情は富国強兵の政策もあって、生産能力に欠ける存在とされていた知的障害への理解は甚だ乏しく座敷牢で一生涯を送る者も少なくなかった。

その後、娘を石井亮一が主宰する滝乃川学園に預けていた経緯から学園に経済的・精神的な援助を惜しまないようになる。夫に先立たれたが、石井亮一の人間性に惹かれ、再婚。知的障害者の保護・教育・自立に献身する。筆子は実際に教育現場に立つ一方、華族出身であったことを生かし皇族、華族、財界人からの支援を受けることに成功し、滝乃川学園の発展に貢献した。1892年に夫は学園維持のための莫大な借金を抱えたまま死去する。

晩年には脳出血で半身不随となり、学園の閉鎖も検討するが、学園の維持こそ夫の遺志を継ぐことと奮起し1937年10月16日、76歳の高齢で2代目学園長に就任する。しかし戦時中であり、生徒や教職員の戦死など困難の続く中、学園の将来を案じつつ83歳で死去した。学園は戦争を乗り切って維持され、現在の社会福祉法人・滝乃川学園として至っている。

参考:
◎『無名の人石井筆子・“近代”を問い歴史に埋もれた女性の生涯』津曲裕次、一番ヶ瀬康子、河尾豊司編

◎映画『筆子・その愛 -天使のピアノ-』(2007年、主演:常盤貴子 現代ぷろだくしょん) )
http://www.gendaipro.com/fudeko/story.html

≪映画のストーリー≫
乃川学園の倉庫に眠る、天使のエンブレムが設えられた一台のピアノ。ピアノは自らの主だった一人の女性の物語を伝える・・・・。

肥後国で生まれ育った、その少女は隠れキリシタンの弾圧の中で同じ「人」が虐げられる現実に疑問を抱き心を痛める。筆子は東京女学校を卒業後、皇后の命によりヨーロッパに留学。帰国後、筆子は津田梅子と共に華族女学校の教師となり、筆子はフランス語科目の授業を受けもった。そのときの教え子に貞明皇后がいた。
さらに静修女学校の校長に就任し、近代女子教育者としても活躍した。静修女学校は後に津田が主宰していた女子英学塾に引き継がれ、現在の津田塾大学となる。

さらにその才媛ぶりは、鹿鳴館の舞踏会にも度々加わわり、容姿端麗な「鹿鳴館の華」と評判となった。大村藩の家老職を代々務めてきた小鹿島家に嫁いだ。

しかし、生まれてきた長女は先天的知的障害を患っていた。続いて、生後十ヶ月で夭折する次女、結核に倒れる三女、さらに夫である果もまた結核に倒れ帰らぬ人となり、彼女は小鹿島家を追われる。

失意の彼女は長女を養育する最中、娘を受け入れてくれる学校を探し聖三一孤女学院へと辿り着く。学院の校長である石井亮一は娘を教え子に温かく迎え、彼女もその理念に深く心を動かされる。

日本障害児者教育の母、日本福祉の母・石井筆子。


posted by Nina at 00:00| 千葉 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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