チャンスは、夢や希望がない人にはやってこない。
夢や希望がなければ、チャンスがきてもそれに気づかない。
そして、チャンスに気づく人は、失敗を恐れず夢に向って行動する人のようだ。
将来の夢に向って、コツコツと準備を整え、努力を重ねていくことだ。
「幸運とは、準備がチャンスに出合うこと」(オプラ・ウィンフリー)
例えば、急に舞台の主役が倒れ、急遽、主役の代役ができるのは、主役のセリフと演技を覚えていた人に巡ってくる。そういう点で、天才・チャップリンの話が持ち出される。
しかし、その生い立ちは、6歳にして貧しい人々の施設「貧民院」に入所したため、まともな学校教育を受けなかった。芸人だった父は酒乱(DV)、そのため母親はチャップリンが1歳の時に離婚。
安いアパートの屋根裏部屋での生活は、母の歌い手としての収入だけで成り立っていた。
あるとき、舞台で母の声が急に出なくなり、観客からの激しいヤジを浴びて袖に引っ込まざるを得なくなり、その代役として舞台に出たのが、エンターテイナーへの道の始まりだった。
わずか5歳で急に舞台に出たら、緊張して泣き出してもおかしくない状況だが、チャップリンはオーケストラの演奏をバックに、当時流行していた曲を堂々と歌い始めたのだという。
歌の途中で、客席からお金が次々に投げ込まれると、チャップリンは「お金を拾ってからつづけます」と歌を中断してお金を拾い始めた。するとこれが大うけして観客が大笑い。
それからは、ダンスからモノマネまでエンターテイメントの才能を発揮した。
母の喉は回復することはなく、この舞台を最後に引退。
生活はさらに苦しくなり、仕送りを気まぐれに送ってきていた父親も37歳で他界。
母も病に倒れるなど、次から次へと人生の困難が、若きチャップリンに降りかかってきたのだ。
チャップリンは自伝で、「新聞売り子、印刷工、おもちゃ職人、ガラス吹き、診療所の受付、等々と、あらゆる職業を転々としたが、その間も、俳優になるという最終目標だけは、一度として見失わなかった」
と書いている。チャップリンは仕事と仕事の合間に、俳優事務所を訪ね歩いた。いくつかの寸劇を行ないながら、大きなチャンスが巡ってきたのは、17歳のときだ。
イギリスの劇団のオーナーから『フットボール試合』という芝居で、ハリイ・ウェルドンという当時人気を博したコメディアンと同じ舞台に立つチャンスを与えられたのである。
「どうだ、『フットボール試合』でハリイ・ウェルドンの相手役がやれるかね?」とオーナーが半信半疑で聞いたとき、チャップリンは戸惑うことなく、「ええ、私に必要なのは、チャンスだけです」
2週間のテストの結果、チャップリンは見事合格した。そればかりか、主演を完全に食ってしまうほどの活躍ぶりで、評論家たちはこぞってチャップリンを絶賛。大型新人の登場だと、大きなインパクトを与えた。
チャップリンは、いつでも「チャンスさえあればやれる」ように準備をしていたのだ。さまざまな職業で生活資金を稼ぐ一方で、舞台で場数も踏み、経験を積んでいた。
環境や生い立ち、学歴のないせいにすることなく、ただ一心にあらゆることにチャレンジして前に進み続けた。
ないものにあきらめ続けるのではなく、新たに創造していける強みがあれば、夢をかなえる事ができることを実証してくれた世界一の喜劇王。私たちの町・我孫子には、今問題も多いけれど、私なりに新たな夢をもっている、それを叶えるように行動しようと思うこの頃です。
どうぞ、夢を語り合おうという方、ninakaizu@gmail.comへご連絡を!!!
参考:
真山知幸『君の歳にあの偉人は何を語ったか』 星海社新書
2013年01月05日
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