日本の戦後対応は、ドイツのように罪を認め、賠償を十分に行などしていないとの批判がされることが多い。日本は、戦後賠償、謝罪をしていないと韓国に訴求される。そして、よく引き合いにだされるのが、ヴァイツゼッカー大統領(西ドイツ当時)が行った演説だった。日本では、降伏40周年を記念するヴァイツゼッカーの演説は『荒れ野の40年』(邦訳は岩波ブックレット)と題して日本語にも訳されている。そこで、改めて演説文をネット検索して読んでみた。
ヴァイツゼッカ―の演説は、格調高い名文だ。その中でも “過去に眼を閉ざす者は、未来に対してもやはり盲目となる”が、よく知られている。ヴァイツゼッカーはこの降伏記念日を「ナチスの暴力支配による非人間的システムからの解放の日」と形容した。言葉によって、人を鼓舞し和解が可能であることを証明した政治家である。他にも “自由民主主義体制において必要な時期に立ち上がるなら、後で独裁者に脅える必要はない、つまり自由民主主義擁護には法と裁判所だけでは不足で、市民的勇気も必要” などと述べて、拍手が上がったのだった。氏の在任中に1990年10月3日のドイツ再統一を迎え、新たに加わった国民(旧東ドイツ国民)を温かく歓迎し「統一することとは、分断を学ぶことだ」と題する演説をした。もちろん政治家は言葉の解釈の幅をとって演説をするものだ。政治家の意図した表向きの麗句を解釈するだけでなく、さらにその背景を探るべきだ。
法学者、哲学者、西ドイツ市長などを経て政治家なったが、彼の父親はナチのA級戦犯とされた人でもあった。父親の裁判の弁護をしたのが息子であるワイツゼッカ―であった。敗戦記念日の演説の意図には、父親の生きた時代背景を詳細に語り、且つ、後世に記録され、世界を意識して、父親の行為に理解を取り付けられるためにと考えた上で準備したとの指摘もされるから、練りに練って30分演説だった。戦後40年記念の際のヴァイツゼッカーの演説=謝罪の深さ(長さ)からすると、それ相応の賠償もしたのだろうかと思われるが、しかし、東西ドイツと分断しての賠償は日本のようには始めていなかった。
世界シオニスト機構の議長を務めたナフム・ゴールドマンは、『ユダヤの逆説』の中で、次のような事を率直に述べている。「ドイツは総額8000億ドル支払うことになった。 イスラエルが国家としてスタートした最初の10年間、ドイツからの賠償金がなければ、現在のインフラの半分も整備されていなかっただろう。 イスラエルの全ての鉄道・船・電力設備・産業基盤はドイツ製である。 その上、生存者に支払われる個人賠償があった。 イスラエルはドイツから毎年何億ドルの賠償金をドイツ通貨で受け取っていた」としている。
ドイツが東西分断国家となっていたため、賠償等の問題を一括処理することが出来なかったことなどにより、結果的にナチスの犯罪の犠牲者への個人補償という形をとった。支払は2001年より開始され、2007年6月に終結した。支払い対象はおよそ百カ国にまたがる166万人であり、支払総額は43.7億ユーロに達する(Wikipedia)
一方で、日本は演説においては謝罪の言葉が短い。伝えるのに長さは重要ではないものの、日本語の「遺憾」という漢字二字だけで表現して、真意を読み取ってもらうのが難しいのではないだろうか。国際社会に短い日本語のスピーチで、五七五の行間を読む教育を施されていない他者にどう伝えられるか考えたりしているのだろうか。まして、日本は、世界をどの程度意識しているのだろうか。この為に、日本が多額の賠償金を払っていたのだと思われないでいるが、事実はそうではない。
朝鮮半島が分断され、日本が、戦後に支払った賠償金額も、表向きにその国民に評伝する機会もなかったので、後に”漢江の奇跡”と韓国政府が喧伝するようになっても、その原資がどこから出ていたかと声明すること泰然と見守るだけだった。朝鮮戦争に関わる米軍特需も確かに戦後の日本の道程にあった。多額の賠償金を長年にわたり支払って、日本は彼の国の復興の支えともなった筈が、国交が復活していない当時の南北分断の軍事政権下でもあった皮肉な事情もあった。ゆえに、日本の国内でも、十分な謝罪や賠償を行ったとの認識がされていない。
一方で、昭和天皇 は 全斗煥 大統領歓迎の宮中晩餐会(1984年)で「今世紀の一時期において,両国の間に不幸な過去が存したことは誠に遺憾であり,再び繰り返されてはならない」と おける 謝罪 の言葉を述べた。 しかし、「遺憾」との言葉に短く込められたのであったこどで、日本の謝罪が未だ不充分であるとして、中韓北だけでなく欧米のメディアにも批判される点となった。
また、女性政治家として発言力が際立っていたヒラリー・クリントンは、従軍慰安婦との名称を含め、当時に華僑反日組織や韓国挺身体などの主張を後ろ盾に活動する日系政治家・マイク本田などのロビー活動に影響され、強く非難を高じ、それをメディアも取り上げた。ドイツ首相のように周到に練り上げて世界に弁明する考えがなく、諸外国が理解できないのも無理もない。日本の場合、日朝韓の複雑に絡み合った背景がありながら、敗者は語らずと決めこんでいた。「遺憾」との言葉を五七五で推し量れる日本人の素養がなくして、天子の深き思いを推し量れるなどしない。その上に、戦中派の議員の度重なる舌禍失言が多くあり、アジア蔑視できた本音がそこにあるのではと憶測され、苦しい説明、訂正を重ねてきた。言葉で説く事を大事にする欧州の一国・ドイツと極東の日本の論語の世界の差が出たのだ。
因みに敗戦国・日独伊の中でイタリアはどうしたのかというと、第二次大戦の最終盤に連合軍側にムッソリーニのファシズムから市民はパルチザンに加わり戦って解放された、という図式であって、イタリア国民に贖罪意識はないという。つまり、今のイタリアと戦中のイタリアとは立場が違うという考えが一般である。さらに、ヒットラーの率いたワイマール帝国は、戦後に東西ドイツになり、分断した壁の崩壊により統一ドイツになった事情なので、日本の天皇のように戦前戦後も君臨するのとは明らかに違っていた。
しかし、新憲法で日本国となったが、天皇が象徴としてあることで、軍国主義を統帥した大日本日本国の影が付きまとう。前時代的なハラキリも厭わないサムライ文化をもつ極東の国と欧米諸国から怪訝な目を向けられてきたのを、多くの日本人は今まで気づかないできたのではないか。21世紀の時機を得て、多様な文化背景をもつ世界の国々に分かるように伝える努力をもっとすべきである。
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(1985年5月8日に西ドイツの連邦議会でのヴァイツゼッカー演説 全文訳)
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5月8日は心に刻むための日であります。心に刻むというのは、ある出来事が自らの内面の一部となるよう、これを信誠かつ純粋に思い浮かべることであります。そのためには、われわれが真実を求めることが大いに必要とされます。
われわれは今日、戦いと暴力支配とのなかで斃れたすべての人びとを哀しみのうちに思い浮かべておりす。
ことにドイツの強制収容所で命を奪われた 600万のユダヤ人を思い浮かべます。戦いに苦しんだすべての民族、なかんずくソ連・ポーランドの無数の死者を思い浮かべます。
ドイツ人としては、兵士として斃れた同胞、そして故郷の空襲で捕われの最中に、あるいは故郷を追われる途中で命を失った同胞を哀しみのうちに思い浮かべます。
虐殺されたジィンティ・ロマ(ジプシー)、殺された同性愛の人びと、殺害された精神病患者、宗教もしくは政治上の信念のゆえに死なねばならなかった人びとを思い浮かべます。
銃殺された人質を思い浮かべます。
ドイツに占領されたすべての国のレジスタンスの犠牲者に思いをはせます。
ドイツ人としては、市民としての、軍人としての、そして信仰にもとづいてのドイツのレジスタンス、労働者や労働組合のレジスタンス、共産主義者のレジスタンス−−これらのレジスタンスの犠牲者を思い浮かべ、敬意を表します。
積極的にレジスタンスに加わることはなかったものの、良心をまげるよりはむしろ死を選んだ人びとを思い浮かべます。はかり知れないほどの死者のかたわらに、人間の悲嘆の山並みがつづいております。
死者への悲嘆、傷つき、障害を負った悲嘆、非人間的な強制的不妊手術による悲嘆、空襲の夜の悲嘆、故郷を追われ、暴行・掠奪され、強制労働につかされ、不正と拷問、飢えと貧窮に悩まされた悲嘆、捕われ殺されはしないかという不安による悲嘆、迷いつつも信じ、働く目標であったものを全て失ったことの悲嘆−−こうした悲嘆の山並みです。
今日われわれはこうした人間の悲嘆を心に刻み、悲悼の念とともに思い浮かべているのであります。
人びとが負わされた重荷のうち、最大の部分をになったのは多分、各民族の女性たちだったでしょう。
彼女たちの苦難、忍従、そして人知れぬ力を世界史は、余りにもあっさりと忘れてしまうものです。彼女たちは不安に脅えながら働き、人間の生命を支え護ってきました。戦場で斃れた父や息子、夫、兄弟、友人たちを悼んできました。この上なく暗い日々にあって、人間性の光が消えないよう守りつづけたのは彼女たちでした。
暴力支配が始まるにあたって、ユダヤ系の同胞に対するヒトラーの底知れぬ憎悪がありました。ヒトラーは公けの場でもこれを隠しだてしたことはなく、全ドイツ民族をその憎悪の道具としたのです。ヒトラーは1945年 4月30日の(自殺による)死の前日、いわゆる遺書の結びに「指導者と国民に対し、ことに人種法を厳密に遵守し、かつまた世界のあらゆる民族を毒する国際ユダヤ主義に対し仮借のない抵抗をするよう義務づける」と書いております。
歴史の中で戦いと暴力とにまき込まれるという罪−−これと無縁だった国が、ほとんどないことは事実であります。しかしながら、ユダヤ人を人種としてことごとく抹殺する、というのは歴史に前例を見ません。
この犯罪に手を下したのは少数です。公けの目にはふれないようになっていたのであります。しかしながら、ユダヤ系の同国民たちは、冷淡に知らぬ顔をされたり、底意のある非寛容な態度をみせつけられたり、さらには公然と憎悪を投げつけられる、といった辛酸を嘗めねばならなかったのですが、これはどのドイツ人でも見聞きすることができました。
シナゴーグの放火、掠奪、ユダヤの星のマークの強制着用、法の保護の剥奪、人間の尊厳に対するとどまることを知らない冒涜があったあとで、悪い事態を予想しないでいられた人はいたでありましょうか。
目を閉じず、耳をふさがずにいた人びと、調べる気のある人たちなら、(ユダヤ人を強制的に)移送する列車に気づかないはずはありませんでした。人びとの想像力は、ユダヤ人絶滅の方法と規模には思い及ばなかったかもしれません。しかし現実には、犯罪そのものに加えて、余りにも多くの人たちが実際に起こっていたことを知らないでおこうと努めていたのであります。当時まだ幼く、ことの計画・実施に加わっていなかった私の世代も例外ではありません。
良心を麻痺させ、それは自分の権限外だとし、目を背け、沈黙するには多くの形がありました。戦いが終り、筆舌に尽しがたいホロコースト(大虐殺)の全貌が明らかになったとき、一切何も知らなかった、気配も感じなかった、と言い張った人は余りにも多かったのであります。
一民族全体に罪がある、もしくは無実である、というようなことはありません。罪といい無実といい、集団的ではなく個人的なものであります。
人間の罪には、露見したものもあれば隠しおおせたものもあります。告白した罪もあれば否認し通した罪もあります。充分に自覚してあの時代を生きてきた方がた、その人たちは今日、一人ひとり自分がどう関り合っていたかを静かに自問していただきたいのであります。
今日の人口の大部分はあの当時子どもだったか、まだ生まれてもいませんでした。この人たちは自分が手を下してはいない行為に対して自らの罪を告白することはできません。
ドイツ人であるというだけの理由で、彼らが悔い改めの時に着る荒布の質素な服を身にまとうのを期待することは、感情をもった人間にできることではありません。しかしながら先人は彼らに容易ならざる遺産を残したのであります。
罪の有無、老幼いずれを問わず、われわれ全員が過去を引き受けねばなりません。全員が過去からの帰結に関り合っており、過去に対する責任を負わされているのであります。
心に刻みつづけることがなぜかくも重要であるかを理解するため、老幼たがいに助け合わねばなりません。また助け合えるのであります。
問題は過去を克服することではありません。さようなことができるわけはありません。後になって過去を変えたり、起こらなかったことにするわけにはまいりません。しかし過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのです。
ユダヤ民族は今も心に刻み、これからも常に心に刻みつづけるでありましょう。われわれは人間として心からの和解を求めております。
まさしくこのためにこそ、心に刻むことなしに和解はありえない、という一事を理解せねばならぬのです。
物質面での復興という課題と並んで、精神面での最初の課題は、さまざまな運命の恣意に耐えるのを学ぶことでありました。ここにおいて、他の人びとの重荷に目を開き、常に相ともにこの重荷を担い、忘れ去ることをしないという、人間としての力が試されていたのであります。またその課題の中から、平和への能力、そして内外との心からの和解への心構えが育っていかねばならなかったのであります。これこそ他人から求められていただけでなく、われわれ自身が衷心から望んでいたことでもあったのです。
かつて敵側だった人びとが和睦しようという気になるには、どれほど自分に打ち克たねばならなかったか−− このことを忘れて五月八日を思い浮かべることはわれわれには許されません。ワルシャワのゲットーで、そしてチェコのリジィツェ村で虐殺された犠牲者たち−−われわれは本当にその親族の気持になれるものでありましょうか。
ロッテルダムやロンドンの市民にとっても、ついこの間まで頭上から爆弾の雨を降らしていたドイツの再建を助けるなどというのは、どんなに困難なことだったでありましょう。そのためには、ドイツ人が二度と再び暴力で敗北に修正を加えることはない、という確信がしだいに深まっていく必要がありました。
ドイツの側では故郷を追われた人びとが一番の辛苦を味わいました。五月八日をはるかに過ぎても、はげしい悲嘆と甚だしい不正とにさらされていたのであります。もともとの土地にいられたわれわれには、彼らの苛酷な運命を理解するだけの想像力と感受性が欠けていることが稀ではありませんでした。
しかし救援の手を差しのべる動きもただちに活発となりました。故郷を捨てたり追われた何百万人という人びとを受け入れたのであります。歳月が経つにつれ、彼らは新しい土地に定着していきました。彼らの子どもたち、孫たちは、いろいろな形で父祖の地の文化とそこへの郷土愛とに結びついております。それはそれで結構です。彼らの人生にとって貴重な宝物だからであります。
しかし彼ら自身は新しい故郷を見出し、同じ年配の土地の仲間たちと共に成長し、とけ合い、土地の言葉をしゃべり、その習慣を身につけております。彼らの若い生命こそ内面の平和の能力の証しなのであります。彼らの祖父母、父母たちはかつては追われる身でした。しかし彼ら若い人びと自身は今や土地の人間なのです。
故郷を追われた人びとは、早々とそして模範的な形で武力不行使を表明いたしました。力のなかった初期のころのその場かぎりの言葉ではなく、今日にも通じる表白であります。武力不行使とは、活力を取り戻したあとになってもドイツがこれを守りつづけていく、という信頼を各方面に育てていくことを意味しております。
この間に自分たちの故郷は他の人びとの故郷となってしまいました。東方の多く古い墓地では、今日すでにドイツ人の墓よりポーランド人の墓の方が多くなっております。
何百万ものドイツ人が西への移動を強いられたあと、何百万のポーランド人が、そして何百万のロシア人が移動してまいりました。いずれも意向を尋ねられることがなく、不正に堪えてきた人びとでした。無抵抗に政治につき従わざるをえない人びと、不正に対しどんな補償をし、それぞれに正当ないい分をかみ合わせてみたところで、彼らの身の上に加えられたことについての埋合せをしてあげるわけにいかない人びとなのであります。
五月八日のあとの運命に押し流され、以来何十年とその地に住みついている人びと、この人びとに政治に煩らわされることのない持続的な将来の安全を確保すること−−これこそ武力不行使の今日の意味であります。法律上の主張で争うよりも、理解し合わねばならぬという誡めを優先させることであります。
これがヨーロッパの平和的秩序のためにわれわれがなしうる本当の、人間としての貢献に他なりません。
1945年に始まるヨーロッパの新スタートは、自由と自決の考えに勝利と敗北の双方をもたらすこととなりました。自らの力が優越していてこそ平和が可能であり確保されていると全ての国が考え、平和とは次の戦いの準備期間であった−−こうした時期がヨーロッパ史の上で長くつづいたのでありますが、われわれはこれに終止符をうつ好機を拡大していかなくてはなりません。
ヨーロッパの諸民族は自らの故郷を愛しております。ドイツ人とて同様であります。自らの故郷を忘れうる民族が平和に愛情を寄せるなどということを信じるわけにまいりましょうか。
いや、平和への愛とは、故郷を忘れず、まさにそのためにこそ、いつも互いに平和で暮せるよう全力を挙げる決意をしていることであります。追われたものが故郷に寄せる愛情は、復讐主義ではないのであります。
戦後四年たった1949年の本日5月8日、議会評議会は基本法を承認いたしました。議会評議会の民主主義者たちは、党派の壁を越え、われわれの憲法(基本法)の第一条(第二項)に戦いと暴力支配に対する回答を記しております。
ドイツ国民は、それゆえに、世界における各人間共同社会・平和および正義の基礎として、不可侵の、かつ、譲渡しえない人権をみとめる五月八日がもつこの意味についても今日心に刻む必要があります。
戦いが終ったころ、多くのドイツ人が自らのパスポートをかくしたり、他国のパスポートと交換しようといたしましたが、今日われわれの国籍をもつことは、高い評価を受ける権利であります。
傲慢、独善的である理由は毫もありません。しかしながらもしわれわれが、現在の行動とわれわれに課せられている未解決の課題へのガイドラインとして自らの歴史の記憶を役立てるなら、この40年間の歩みを心に刻んで感謝することは許されるでありましょう。
−−第三帝国において精神病患者が殺害されたことを心に刻むなら、精神を病んでいる市民に暖かい目を注ぐことはわれわれ自身の課題であると理解することでありましょう。
−−人種、宗教、政治上の理由から迫害され、目前の死に脅えていた人びとに対し、しばしば他の国の国境が閉ざされていたことを心に刻むなら、今日不当に迫害され、われわれに保護を求める人びとに対し門戸を閉ざすことはないでありましょう。
−−独裁下において自由な精神が迫害されたことを熟慮するなら、いかなる思想、いかなる批判であれ、そして、たとえそれがわれわれ自身にきびしい矢を放つものであったとしても、その思想、批判の自由を擁護するでありましょう。
−−中東情勢についての判断を下すさいには、ドイツ人がユダヤ人同胞にもたらした運命がイスラエルの建国のひき金となったこと、そのさいの諸条件が今日なおこの地域の人びとの重荷となり、人びとを危険に曝しているのだ、ということを考えていただきたい。
−−東側の隣人たちの戦時中の艱難を思うとき、これらの諸国との対立解消、緊張緩和、平和な隣人関係がドイツ外交政策の中心課題でありつづけることの理解が深まるでありましょう。双方が互いに心に刻み合い、たがいに尊敬し合うことが求められているのであり、人間としても、文化の面でも、そしてまたつまるところ歴史的にも、そうであってしかるべき理由があるのであります。
ソ連共産党のゴルバチョフ書記長は、ソ連指導部には大戦終結40年目にあたって反ドイツ感情をかきたてるつもりはないと言明いたしました。ソ連は諸民族の間の友情を支持する、というのであります。
東西間の理解、そしてまた全ヨーロッパにおける人権尊重に対するソ連の貢献について問いかけている時であればこそ、モスクワからのこうした兆しを見のがしてはなりますまい。われわれはソ連邦諸民族との友情を望んでおるのであります。
人間の一生、民族の運命にあって、40年という歳月は大きな役割を果たしております。
当時責任ある立場にいた父たちの世代が完全に交替するまでに40年が必要だったのです。
われわれのもとでは新しい世代が政治の責任をとれるだけに成長してまいりました。若い人たちにかつて起ったことの責任はありません。しかし、(その後の)歴史のなかでそうした出来事から生じてきたことに対しては責任があります。
われわれ年長者は若者に対し、夢を実現する義務は負っておりません。われわれの義務は率直さであります。心に刻みつづけるということがきわめて重要なのはなぜか、このことを若い人びとが理解できるよう手助けせねばならないのです。ユートピア的な救済論に逃避したり、道徳的に傲慢不遜になったりすることなく、歴史の真実を冷静かつ公平に見つめることができるよう、若い人びとの助力をしたいと考えるのであります。
人間は何をしかねないのか−−これをわれわれは自らの歴史から学びます。でありますから、われわれは今や別種の、よりよい人間になったなどと思い上がってはなりません。
道徳に究極の完成はありえません−−いかなる人間にとっても、また、いかなる土地においてもそうであります。われわれは人間として学んでまいりました。これからも人間として危険に曝されつづけるでありましょう。しかし、われわれにはこうした危険を繰り返し乗り越えていくだけの力がそなわっております。
ヒトラーはいつも、偏見と敵意と憎悪とをかきたてつづけることに腐心しておりました。
若い人たちにお願いしたい。
他の人びとに対する敵意や憎悪に駆り立てられることのないようにしていただきたい。
ロシア人やアメリカ人、ユダヤ人やトルコ人、オールタナティヴを唱える人びとや保守主義者、黒人や白人これらの人たちに対する敵意や憎悪に駆り立てられることのないようにしていただきたい。若い人たちは、たがいに敵対するのではなく、たがいに手をとり合って生きていくことを学んでいただきたい。
民主的に選ばれたわれわれ政治家にもこのことを肝に銘じさせてくれる諸君であってほしい。そして範を示してほしい。
自由を尊重しよう。
平和のために尽力しよう。
公正をよりどころにしよう。
正義については内面の規範に従おう。
今日5月8日に際し、能うかぎり真実を直視しようではありませんか。
ニュルンベルクで開かれ裁判で、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の党大会開催地において、戦犯を裁くという場であった。日本の極東国際軍事裁判(東京裁判)と並ぶ、戦後の二大国際軍事裁判だ。
戦勝国は、それまでになかった国際慣習法や条約上で確立していない「侵略戦争を指導する罪」や「ジェノサイドの罪」を新たに創設し、そのため、欧州大陸法的な常識(法の不遡及)からは「法廷による法の創造」が行われた裁判だとの批判が出るくらいで、当時から現在まで正当性がどこまでかとの根強い批判もある。戦勝国側の「犯罪」は完全に免責したからである。
ニュルンベルク裁判では、ドイツが「平和に対する罪」で告発された一方で、ソ連の「平和に対する罪」は不問に付された。連合軍によるドイツへの無差別爆撃(ドレスデン爆撃などをはじめとして、日本本土への爆弾投下量の10倍にも当たる150万トンもの爆弾がドイツ本土に投下され、少なくとも30万人の非戦闘員が犠牲になった)や、ソ連軍の侵攻によってドイツのソ連占領地区で起きた、ソ連兵による強姦・暴行・殺人事件、シベリア抑留も裁判は不問とされた。
問題の大量ガス殺の現場証拠として法廷に提出されたのは、アウシュヴィッツ収容所の物的証拠ではなくダッハウ収容所のシャワールームの水栓であったとの指摘もある。ドイツ国内にあったとされていた強制収容所などで大量殺害を行なったとされるガス室を備えた絶滅収容所の存在も、現在では否定されている。「ダッハウでも、ベルゲン・ベルゼンでも、ブッヘンヴァルトでも、ユダヤ人その他の囚人は、ガス処刑されなかった。ダッハウのガス室は『完成しておらず』稼働していなかった」との検証が進んでいる。
裁判では、ダッハウ収容所はシャワー室を改造したガス室の存在した絶滅収容所だと断定され、絶滅収容所はドイツ各地に存在したとされた。反対尋問は許されず600万人のユダヤ人虐殺が認定された。しかも現在のイスラエルの学者でも、ドイツ国内に絶滅収容所があったという者はいないという。ナチの戦犯追及に尽力したユダヤ人活動家も、ドイツ国内には絶滅収容所はなかったと述べているというのだ。こうなってくると、事実がどこまでなのかすら、裁判のさばき方に問題すらありそうだ。
現在、絶滅収容所であったとされているのは、ソ連軍が占領して調査した東ヨーロッパの収容所である。これらの収容所は戦後しばらく、ソ連が立ち入りを禁止したために、西側の調査団は調査を許されなかった。そのため、ソ連が解放した収容所の実態についての議論が尽きない状態になっている。
また、カティンの森事件は、今日ではロシア政府も当時のソ連が虐殺を実行したと認めている事件であるが、この事件はソ連が崩壊するまでドイツ軍による仕業と信じられていた。また大戦中、ポーランドのイェドヴァブネ村で起こった虐殺事件(イェドヴァブネ事件)も、ドイツ軍によるものと長年にわたって信じられていたが、現地調査により実際にはポーランド人の手によって行なわれたことが判明している。
こうした検証がされるなかで、ヴァイツゼッカ―の父はナチスA級戦犯裁判で無罪を主張していたということだ。戦後40年の節目に、大統領としての30分近い演説は、対外的な謝罪に重点をおいているというよりは多くの犠牲を払ったドイツの参戦について、歴史的な贖罪をして、国民に呼びかけたとも読めるそうだ。どう謝罪の演説をしたか、演説の長さで計るなら、確かに想いがこもっている。
東西ドイツの堺にはベルリンの壁が立ちはだかっていた当時は、1955年に西ドイツはNATO軍事同盟の要所として、世界の平和のために戦闘にも赴く体制に組み入れられていた。そして、戦後賠償についてはドイツが東西分断されたこともあり、実際には対外国的な賠償に応える状況もないままになっていた時期があったということなのだ。
参考 http://inri.client.jp/hexagon/floorA6F_hb/a6fhb802.html
2012年10月02日
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