2012年07月24日

戦後の法草案は、東北の民衆運動から始まった!

3・11以後、東北の復興と再生という課題に日本は直面している。かつて維新後の福島は新政府の敵ともなった戊辰戦争の敗北もあって、高知と並んで運動が盛り上がった地域だった。維新後の動乱期の中から立ち上がり、東北の人々はどのような未来を思い描いていたのか。原発事故で警戒区域となった福島県浪江町には、苅宿仲衛(かりやどなかえ)という民権運動家がいた。明治10年代、国会開設を求めて全国にひろがった自由民権運動。1882年の加波山事件、福島事件などを機に運動は政府の厳しい弾圧を受けた。苅宿は投獄されるが、厳しい拷問を耐え抜き、自由を求め、後に県議として初志貫徹、地域人民の為に働いた。東北を訪ね、歴史を振り返ると民衆の運動の原点が見える、東北人の諦めない底力が分かる。

小田急電鉄の創設者である利光鶴松研究が、明治初期に各地で起草された私擬憲法の一つである「五日市憲法草案」の深沢家土蔵から発見(1968年)、明治期の埋もれた民衆思想を発掘した。五日市憲法を起草した宮城出身の千葉卓三郎、岩手出身の小田為綱らがいた。小田は戊辰戦争で疲弊した三陸海岸の復興計画を何度も建白したが、採用されなかった。

こうした東北の民権運動家はその後埋もれてしまい、再評価されたのは第2次世界大戦後のことだった。五日市憲法は、戦後に鈴木安蔵(南相馬市生まれ)が、高知で植木枝盛の草案なども研究し、戦後の憲法草案に尽くした日本人側の人物だと理解されるようになり、GHQのみで戦後憲法がつくられたのではない事も最近の研究で明らかになってきた。五日市憲法は、現日本国憲法にある基本的人権の尊重を重視し、国民の権利保障に重点をおいたものとなっている。

同憲法起草地である東京都西多摩郡五日市町(現・あきる野市)の五日市中学校、出生地である宮城県栗原郡志波姫町(現・栗原市)、および墓地がある仙台市の資福寺に記念碑が建立されるようになったため、多摩市は、このところは財政白書など自治研究などの市民運動が盛んである。その時代の出来ごと、先人たちの苦労を忘れないように後世の人々に語り継ぐことは、困難を乗り越える支えにもなるようだ。

我孫子では地域文化、地域経済を女性たちが支えた。その活動を伝えて遺していく顕彰碑(記念板)を創りたいと、今、呼びかけをはじめている。


posted by Nina at 00:00| 千葉 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック
カテゴリ
日記(3507)
ニオュ(0)
歴史(0)
chiba(60)