2012年07月25日

女性市長だから出来た、カネミ油症被害者のシンポジウム

 福島の事故から1年4か月が過ぎても、国も東電も銀行も保険会社もその責任を取ろうという姿勢が見えない。国民の不-安を拭うはずの政府が国民を不安を増幅するならば、責任も取らぬまま、今後も変わりなく責任をとる(座にある、座を降りるなど)などっと嘘ぶくようなら許してはならない。

振り返ってみれば、水俣やカネミの公害問題、血液製剤の対処がけして被害者の保護など頭になかったことが起きていたのを思い出せば、そのまま変わっていないと言える。

 そういう姿勢を少しでも、変えようとした女性政治家に九州初の女性市長となった五島市の中尾郁子市長がいる。市議時代に、五島市視察をしたさい市長ともお会いしたが、そのことが今ようやく、市長の信頼の源がなんであったか分かってきた。

五島市.jpg
 
 中尾市長は、多数の被害者が住んでいる自治体の市長として「自治体としてやれることやらなければならないことを具体的に考えて実行する」との意志と姿勢を貫き、それは関係者を一同にかいしてのシンポジウム開催を企画するなどの中心となったことや、シンポジウムでの挨拶やパネラーとしての発言などにあらわれていた。

 それではその中尾市長を動かしたものは何か? カネミ油症被害者は西日本各地に広がっており被害者全体を結集することは大変困難であった。しかも五島市では初期の段階で裁判を起こすか否かなどについての立場の違いなどからいくつかの会に分かれて、話し合いが出来ないでいた。それが2005年10月、そのシンポジウムを機にひとつにまとまったのである。

 しかも、シンポジウムで市長は、五島市の被害者全体のまとまりを受けてカネミ油症被害者救済に本格的に取り組む決意を表明した。そのカネミ油症五島市の会結成の3ヶ月前(2005年7月)、五島市で日弁連人権擁護委員会がカネミ油症被害者の被害の実情についてヒアリングを行った。このヒアリングは地元マスコミで大きく報道され、それを契機にカネミ油症被害者の救済について社会的関心が広がった。

 このような動きが翌2006年4月のカネミ油症全被害者集会(北九州市、カネミ油症の被害者団体のすべてが参加した画期的な集会)の開催に結びついたのである。この全被害者集会を受けて政治も動きだした。 中でも五島市など関係地域の国会議員が果たした役割は大きい。全被害者集会の直後与党プロジェクトチームが立ち上げられ救済策の検討が開始され冒頭の特別立法などの救済策が実現した。

 五島市という日本の最西端の小さな自治体がカネミ油症被害者の救済の運動のある意味で牽引車になった理由それはやはり「被害」と云うキーワードに尽きる。小さな自治体に、福岡県全体の被害者数に次ぐ被害者が存在する。その被害者がそれまでの立場などの違いを越えてまとまった。
 
 小さいとはいえ自治体もトップが先頭になって動きだし、それがカネミ油症被害者救済の運動全体を動かしたのだった。1987年の裁判終了後「認定」された被害者が直接の加害企業カネミ倉庫に対して損害賠償を求める裁判がいったい何年かかっているのか。被害者を代表して古木原告団長が意見陳述をした。古木さんも五島市に居住している。 40年を経て新たな裁判を……

 冒頭のシンポジウムでは「認定」基準の見直しも議論され来賓の坂口元厚生労働大臣も「見直し」に積極的な発言をしてマスコミの注目をあびた。まだまだカネミ油症被害者救済の課題は残っている。
 
 そして、今始まったばかりの原発被曝・低濃度被曝(ホットスポット)の対処が、これから何人もの政治家が変わりながら、いったい、いつ責任を取ってもらえるか、それこそ保障の限りではない、だから今から市民がまとまって進みださなくてはいけないのだと思う。

*中尾市長の父は元長崎県知事。
五島市は、政治家を輩出しさらに地元の運営を住民本位に考え将来を見据えていこうとの考えが根付いている。男尊女卑の九州の中で初の女性市長を生んだ背景は、合併市になる島々をまとめられるのは中尾氏しかいないとの認識をみなが共有していたからだ。

posted by Nina at 00:00| 千葉 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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