沖縄を代表する伝統的な染色技法の一つに紅型(びんがた)があります。14世紀の紅型の裂が現存しており、技術確立の時間を考慮すると、その起源は13世紀頃と推定され、琉球王朝の時代に、王族や士族など特定の階層の衣裳として発展し、琉球王布・首里・浦添を中心に婦人の礼装、神事に着用されました。14〜15世紀の頃には東南アジア等への海外貿易により、印度やジャワ更紗の技法をとり入れ、沖縄独特の気候風土の自然の中で育まれ、琉球独特の染物として、華麗にしてしかも典雅な「びんがた」の誕生を得たといわれています。
琉球首里王府の保護の元に、中国の型紙の技法も導入され、あらゆる東洋文化の粋を吸収して見事に昇華しました。そのため、東洋のすぐれた華布として中国福建市場へも貴重な貿易品となりました。
「びんがた」は首里王朝時代、士族の婦人の衣装として、又中国や江戸幕府への献上布としても用いられ、階級により図柄や色が貴族と士族とに色別されたといわれています。絵図奉行により描かれた大柄紋様は貴族だけに限られ、士族は小紋の図柄で、出来合の模様が使用されたといわれています。
型紙を駆使して創り出された「かたち」と琉球独特の「いろ」の取合せは、型染めの面白さが高く評価されて江戸時代は琉球更紗として伝わっていました。薩摩藩が貢納布制度をつくって琉球の人々を苦しめることになったが、結果として優れた染織品を生むという効果をもたらした。中国の吉祥文様を図案とし、当時の貴族階級(士族)の女性および成人前の男子の衣装として作成され、文様に衣装を身に着ける者への加護の意味が込められるものでした。
その後、廃藩置県などにより、明治になって王家が無くなると紅型は顧客を失って衰退します。王家からの庇護も失った染屋は廃業を余儀なくされ、多くの染屋が首里を後にし、那覇等に移り住み宮廷のために生まれた紅型は衰退していきました。
昭和初期には沢岻家が過去の作品、型紙、道具類の全てを当時女学校の教員として沖縄に来ていた鎌倉芳太郎に売却して廃業してしまいました。(鎌倉芳太郎はこれをもとに自分で紅型を制作し、後に人間国宝になる。また現代の型染め作家の多くは彼の影響を受けている。)そのころ民芸運動の柳宗悦が沖縄に着ました。彼らは紅型を民芸の優れた例として紹介したので、本土からも注文が来るようになり、一時盛り返しました。しかし昭和20年の沖縄戦で全てが失われてしまいました。
戦後何も無いところから、紅型を復興した人として城間栄喜は名人と呼ばれていますが、その死後娘婿の玉那覇有公が人間国宝に指定されました。 これも、第二次世界大戦で多くの型紙や道具が焼失したが、現在、これを惜しんだ鎌倉芳太郎により一部型紙等は復刻されるようになり琉球文化の歴史の華やかさも解ります。
来月、サントリー美術館で開かれる紅型の大々的な展覧会では、琉球王家に伝わった紅型衣裳の白眉といえる作品をはじめ、初公開の紅型の国宝、優品が40周年記念事業として沖縄からにやってきます。
参考HP:沖縄の染織
http://www.t-net.ne.jp/~srky/okinawa.htm#unker04
2012年05月15日
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