2012年04月24日
東海村、あと70センチで津波被害でも県議会は動かず
茨城県庁において、定期点検中の東海第2原発の再稼働中止及び廃炉を要請する署名が提出された。茨城県東海村は国内初の「原子の灯」が灯った原発だ。大地震の際、あと70センチ津波が高かったら福島同様の事態になっていた。東海第2原発の周辺30キロ圏内には、約100万人が暮らす人口過密地帯で、東京へ110`圏、我孫子にもっとも近い原発だ。
2011年3月11日の大地震では、原子炉は自動停止したが、常用の外部電源も停止。非常用外部電源3台のうち1台も津波の影響で使用不能となり、残る2台を使って原子炉冷却に必要な電源を確保した。その後外部予備電源が回復し、3月15日0時40分(JST)に原子炉水温度が100℃未満の冷温停止したことが確認された。その間は注水と、水蒸気を逃がすための弁操作の綱渡り的な繰り返しで、冷温停止までにかかった時間も通常の2倍以上であった。8月までの予定で定期検査を行っており、運転再開の時期は未定。
3.11の大地震で到達した津波の高さは5.4mで高さ6.1m(想定津波5.7m)の防波壁にあとわずかであった。しかしながらまだ工事中の部分があったため防波壁には穴が開いていた。その穴から入った海水によって、全3台の海水ポンプが水没(2台は水深が低かったため稼動)し、非常用ディーゼル発電機1台も停止した。原子炉を冷却し続けることは出来たが、津波があと70センチ高かったら全ての電源が潰滅し、福島第一原発と同じ状態になっていた。当局は、「(冷却機能が全て失われた)福島第一の事態になった可能性は否定できない」と認めている。
地震があった同日21時50分頃(JST)には、現場機器の状態を確認していた保修員が、複合建屋(非管理区域)蓄電池室2Bにあるドレンファンネルからの溢水を確認した。その後、放射性物質を含む廃液を放水口から放出した。また3月13日には使用済燃料プールおよびサイトバンカープールの溢水が確認されている。
なお、2007年7月の柏崎沖地震(柏崎刈羽原発が被災した)直後に茨城県は「津波浸水想定」に基づき、東海第二発電所の対策を実施。冷却用海水ポンプを守るため、従来あった3.3mの防護壁に加えて、側面にも2.8mの壁を設けていた。津波は5m超であったが、福島第一原発の半分以下だった。ポンプや電源に一部浸水はあったものの、冷却は継続でき、津波対策を講じなかった福島第一原発と明暗を分けた。
これらが報道陣に明らかにされたのは、2012年2月13日、国の視察にあわせてであった。しかも、「6.1mの津波に耐えられる防水工事の完了は大震災の2日前」であった。最近では、非放射性廃棄物を処理する排水管に放射性物質を処理する排水管の誤接続の報告があり、トリチウムが微量に含まれた水が排水されていたとされた。
今3月の茨城県議会で、こうした際の周辺住民の避難において県内のバスを全て動員しても一度に避難させられるはのは24万人だけだと発表した。早い話が、周辺住民の安全は確保できないということだ。県内では、母親たちが中心になり、医師、大学教授らが35名の代表者らで東海原発廃炉へむけての署名運動が展開、第3次提出で茨城県始まって以来の17万人署名が集まり県知事に届けられた。東海原発への不安が大きいことを物語っているが、県議会では3人の県議を除き廃炉に賛成する議員がいない。地域感情と議会は裏腹だ。
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバック