若狭湾で原発建設を探る動きが相次ぐ中、小浜市では1968年、内外海半島の東の入り江にある田烏に関西電力の計画が持ち上がった。鳥居史郎市長(故人)は当初、地元協力を前提に積極的に取り組む姿勢を市会で示していた。
当時、田烏や隣の矢代の集落から市街地まで車で行ける道が通っていなかった。道路整備を求めて田烏の住民が誘致に傾く中、周辺に漁業権を持つ内外海漁協が反対の声を上げた。「先祖代々受け継いできた田畑、山や海を美しいまま次の世代に伝えたい」と矢代の角野政雄さん(故人)が中心となり、内外海原発設置反対推進協議会が69年3月発足した。
角野さんは自身が後援会役員を務める県選出の植木庚子郎衆院議員(故人)に直談判。「道さえ良くなれば、原発の金をもらわなくても生活は十分成り立つ」と訴えた。
中嶌哲演さんは「道路ができれば原発を誘致する理由がなくなると角野さんは考えた」と活動を支援した。熱意は実り、バイクがやっと通れるほどの砂利道はまもなく県道に昇格し、拡幅、舗装された。地元の原発誘致熱は冷めていった。
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「道路という口実がなくなっても、推進派はあきらめなかった。さすがの角野さんも『土俵上弓なりの状態』と弱音を吐いた。地元だけに任せてはいけないと感じた」。中嶌さんらは71年12月、運動を引き継ぐ形で、原発設置反対小浜市民の会を結成した。
宗教者団体、教職員組合、労働団体など含め9団体が大同団結。中嶌さんは事務局長として主導的役割を担った。若狭地区労働組合評議会元会長の畠中謙吾さん(85)は「原発の事故も重なって、反対の気運が盛り上がった時代だった」と振り返る。
市民の会は小浜市への原発設置と若狭湾の集中化に反対する署名活動を始めた。2週間で1万人を突破、3カ月で有権者の半数を超える約1万3千人の署名が集まった。市民運動の輪は大きく広がった。
市民の会は、署名を添えて原発反対の請願を3月市会に提出。誘致に含みを持たせていた鳥居市長は6月市会で「現時点で誘致するつもりはない」と表明した。市会は逆に請願を不採択とした。
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鳥居市長が誘致を否定して3年後、市会には新たな動きが出てきた。75年6月、発電所安全対策調査研究委員会が設置され、12月には保守系会派の民政クラブが発電施設の立地調査推進決議案を提出した。社会党系の元小浜市議、深谷嘉勝さん(67)は「財政が悪化する中、新たな財源を探ろうとしたようだ。原発を前面に出していなかったが、実際は原発誘致のためだった」と語る。
年が明けると、市民の会を中心に反対運動が再燃。2月には市内の公園で300人規模の集会を開き、市長宅前などをデモ行進した。ただ、活発な反対運動を尻目に市会は3月、同決議案を可決した。73年に当選していた浦谷音次郎市長(故人)の態度が注目された。
「財源を取るか、豊かな市民の心を取るか。私は市民の豊かな心の方を取りたい」。浦谷市長は市会でこう答弁し、先代の鳥居市長と同じく誘致拒否の結論を出した。
誘致を選択すれば市内が二分される可能性がある中、「市民の気持ちを大事にした2人の市長の存在が大きかった」と畠中さん。中嶌さんは、勇気ある判断を下した市長を支えたのは市民だったと指摘した。
小浜市では2004年、市会が使用済み核燃料中間貯蔵施設の誘致推進を決議したが、市民の反対の声を背景に村上利夫前市長は誘致を否定。そして福島第1原発事故を受け今年6月、市会が「脱原発」の意見書を可決した。角野さんらの“遺伝子”は今に受け継がれている。(原発取材班)
●小浜市での原発誘致に対する動き●
1968年 3月 鳥居史郎市長が原発誘致に積極的な姿勢を表明
69年 3月 内外海原発設置反対推進協議会が発足
71年12月 原発設置反対小浜市民の会が発足
72年 3月 市民の会が約1万1千人の署名を添え誘致反対の請願書を提出。市会は継続審議
6月 市民の会の署名が有権者の半数の1万3千人を突破
鳥居市長が原発誘致の考えはないと表明
市会が市民の会の請願書を不採択に
75年 6月 市会が発電所安全対策調査研究委員会設置
12月 市会の民政クラブが発電施設の立地調査推進決議案を提出
76年 1月 市民の会などが反対運動展開
3月 市会が民政クラブ提出の決議案を可決
浦谷音次郎市長が原発誘致の考えはないと表明
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