2011年12月16日

松永安左エ門:戦前戦後も電力の自由化は棘の道

松永安左エ門という、明治8(1875)年長崎県壱岐出身でのちに「電力の鬼」と呼ばれ電力改革に働いた人物がいた。国際問題を武力で抑える時代は過ぎたという認識に立って、日本のシベリア出兵に反対した。大正9年1月の衆議院本会議では、演壇に立って、即時シベリア撤兵を求める発言をして田中陸相に迫った。また、炭礦事故の続発に関連して「炭礦資本家は自分の義務を怠り、労働者の犠牲の上に立って稼いでいる」と、政府の適切な対応措置を要求したり、さらに、瀬戸内海の或る小島が精錬のために丸裸になっているのを取り上げて、環境対策の必要性を政府に進言するなど、政治の舞台で活躍した。 安左エ門の発言は、時流におもねらず、反骨的で、時代を先取りした長期展望に立っていた。しかし残念ながら、次の大正9年5月の総選挙で中野正剛の巻き返しに敗れ、政界から足を洗った。

石炭商を経て九州に鉄道会社をつくり、九州電気取締役、関西電気副社長、その後は慶応義塾で学んだ時代に知遇をえた福沢桃介(養子)に誘われて事業に関わり、その後東邦電力に関わり、東邦電力は九州、近畿、中部に及ぶ勢力を持つようになって、東邦電力(現・中部電力)本社は、東京丸の内の東京海上ビルの中に置いた。1927年東邦電力が東京電力(東力)として東京に進出していった。

実は鶴見騒擾事件もこの電力戦が大きな要因とされる。日本最大の喧嘩と呼ばれる鶴見事件は大正時代におきた電力戦争の最たるものだった。一度に500人以上の検挙者を出したという。当時は、東京電燈は政友会派であり、東邦電力は憲政会派であった。憲政会内閣のときに、東力が東京の南部の供給権を手に入れれば、政友会内閣のときには、東電が名古屋市内のど真ん中に名古屋営業所を開設するなど、政治も絡んだ大抗争に発展していった。東力の動力電気料金は、東電よりも3割安く、また、東電には、月に2日の停電日があったのに対して、東力には、停電日がなかったので、かなりの需要家が東力と契約し、動力では、東力が東電の約3割の需要を獲得した。銀行は多くの資金を両社に出している。抗争が長引き、どちらかが大きく傷付くと、銀行にとっても責任問題になる。1927年(昭和2年)、三井銀行の総帥・池田成彬が先頭に立ち、東京電燈の大株主である松永に東京電燈との合併を申し入れた。しかし、池田は安左ヱ門を「財界の共産党」と目して松永を合併会社の社外取締役に就けたのみだった。

大正末期には電力会社の統合が進み、五大電力会社と呼ばれた東京電燈、東邦電力、大同電力、宇治川電気、日本電力の5社にほぼ収斂していった。一方、激烈なシェア争いを繰り広げていた電力業界に対し、逓信省官僚の中には民間には電気事業を任せられないと考える者が多くなっていく。さらに満州事変などの社会情勢、経済統制のなかで半官半民の国策会社・日本発送電を設立してそこに電力開発を全てを束ね、資源の開発と安定供給を行おうという軍部の意向が強く反映されるようになる。和7年に実施された新しい電気事業法から官僚統制の一歩が始まった。そして、昭和10年12月に、内閣調査局の手によって「電力国策要旨」が作成され、それを元に逓信省は「電力国家要項」を作成して、昭和11年7月に国策閣議に提出した。こうして、政府の手によって、電力事業は、国家管理に向けて着々と布石が打たれていった。

国は、金を出さないで電力設備を手中に収めるために、これまで、電力関係者が血みどろになって築き上げてきた電力設備を現物出資の形で取り上げようとしていた。 松永は、超電力連系構想に見られるように「電力事業を統一して無駄を排し、電力の経済性を高める」ことには積極的に賛成であった。これはあくまでも民間の手でおこなわれるべきもので、政府が進めている官僚統制とは一線を画すものであった。 電力業界は当然のことながら猛反発した。特に東邦電力社長となった松永安左エ門は、戦争をせずとも日本の活路はある、国家による管理に反対したその道筋を説き続けた。官僚嫌いでもあった松永は、松永は徹底的な自由主義者だった。軍閥に追随して権限拡大を狙う官僚たちを「人間のクズ」と講演会の席上で発言した(1937年)。これらの言動は「天皇の勅命をいただいているものへの最大な侮辱」と大問題になり、新聞に謝罪広告を掲載する事態に追い込まれる。「あなたは重大なリストに載っているから、手を引かないと危ない」という忠告も受けた。軍部から危険人物としてマークされるに至った松永は、鈴木貞一の助言によって隠退した。戦争激化による国家統制で松永が手塩にかけた東邦電力は消滅した。

正面を切って法案に反対する勢力は居なくなったが、議会では日本発送電の資金調達に対する財源や、低廉な電気料金の現実性を巡って意見が紛糾。原案は否決されて衆議院で修正案が提出されたが、貴族院でさらに再修正されるなど法案の成立には紆余曲折があった。発電・送電計画のほか議会で揉めに揉めた電気関連の審議・決定が行われた。最終的には衆議院と貴族院での両院協議会で調整されて1939年、3月26日に成立。国家総動員法と共に4月1日施行された。

電力評価審査委員会が設置され、全国の電気事業者から接収する電力施設の評価について審査を行い、これ以降全国の発電所、変電所、送電施設が段階的に接収されていった。なお、建前としては各事業者からの出資あるいは買収という形で管理を移管するということであったが、実際は国家総力戦の名の下、強制的に接収したのと同様であった。国家管理を実施するための日本発送電を発足させ、発電と送電を主体とする企業となったが、各家庭や事業所への配電事業は従来通り民間に委ねていた。1937年当時、日本に存在した電気事業者は470社にも及んでいたが、太平洋戦争直前の1941年(昭和16年)8月、配電統制令が施行された。

電気事業が国家管理下に置く政策が取られ、特殊法人の日本発送電会社が設立されると、9の会社が配電事業を行うことになった(一発電九配電体制)。これにより電力会社は特殊法人の日本発送電と関連する9配電会社に統合された。接収した電力施設は「半官半民」である日本発送電株式会社によって管理し、一元運営を行うとするものであった。全国各地の配電事業者は統合を余儀無くされ、五大電力会社を始め全ての事業者は会社を解散した。代わりに全国9ブロック(北海道・東北・関東・中部・北陸・近畿・中国・四国・九州)に新たな配電会社が設立され、この9配電事業体制の下で日本発送電と連携した配電事業が行われることになった。こうした戦時下の状況によって、日本発送電は「半官半民」と謳ってはいたが電力事業の国家統制が進んだ。東邦電力の解散(1942年)を期に松永は引退し、茶道に三昧の日を過ごした。
現在電気事業連合会加盟の電力会社のうち、沖縄電力を除く9社はこの日本発送電が元になっている。

他方、政府は新規電力開発による戦闘機増産を急ぎ、人海戦術による急ピッチでの建設促進を図った。この中で中国人・朝鮮人労働者や敵対していた連合国軍捕虜などをダム・発電所工事に使役し、過酷な強制労働に従事させるという事態も発生した。長野県の平岡発電所(天竜川)や広島県の滝山川発電所(滝山川)などで見られたほか、北海道の雨竜発電所(雨竜川)では劣悪なタコ部屋労働を強いた。また工事従業員に対する安全確保もずさんであり、富山県の黒部川第三発電所(黒部川)工事では雪崩やトンネル内の高熱による火薬爆発事故などで多数の労働者が殉職するなど、日本発送電が関わった工事では多くの労働者が命を落としており、現在ダム近傍の隠れるような場所にこうした労働者の慰霊碑がある。昭和19年(1944年)8月、内閣は「決戦非常措置要領」を発令、全ての物資を戦時体制維持のために軍需に徴用する方針を打ち出した。

米軍の爆撃によって火力発電所や変電所は破壊されて発電・配電機能は喪失し、残った水力発電所も酷使や老朽化の補修ができないため事故が続発した。こうした中で終戦を迎えた、戦後の電力需給のバランスは大きく崩れた。「さあこれから僕が、アメリカと闘うのだ」と訪ねてきた人に松永は語った。GHQ相手に粘り腰で三年、思い通りの九電力をつくるために奔走する。吉田首相は、「電力再編成はどんな形にしても必ず反対が出る。したがって、電気事業再編成審議会の会長は、全てを敵に廻すだけの覚悟を持った大物でなければならない」として、松永安左エ門を選んだ。安左エ門は、昭和21年11月から小田原に移り住んでいた。このとき安左エ門は74才であった。 政府は安左エ門に、小田原・東京間の2等パス(今のグリーン車)を用意した。安左エ門はそれを断って、3等座席で東京に通った。国民が貧乏に苦しんでいるときに、自分だけが2等車に乗るわけにはいかないという、安左エ門の人間性がそのまま現れたエピソードである。

戦後占領下、独占状態の日本発送電会社の民営化が課題になると、電力組織再編の人選を白洲次郎が官僚に働きかけに、4委員を人選していた。松永は審議委員長にとなるが戦前日本発送電の設立に猛反対した。電気事業再編成審議会の全委員(日本発送電存続派)であったため、折り合わない二つの案が政府に答申された。松永の主張した「9ブロック案」は全国9地域に一切の発電・送電・配電を分割するというもので、9配電会社案とほぼ同様であったが、松永以外の4委員の中の三鬼の「融通会社案」を推し、確執は深まり、松永の案は付加意見として両論併記という形で提出された。

GHQを盾に反対を押し切る形で、1951年(昭和26年)5月1日、日本発送電は9配電会社と共に全国9地域の電力会社に分割されたが、これを補完し電力開発を促進することを目的に、翌1952年(昭和27年)に電源開発促進法が公布された。1952年9月には、政府(大蔵大臣・財務大臣)は66.69パーセント、残りを9電力会社が出資して新会社を設立することになった。これが日本発送電と同様に半官半民の特殊会社として設立され電源開発株式会社(日本最大の卸電気事業者、J-POWER)である。電源開発は、1954年の総裁として小坂順造がに就任しており、小坂は1950-1951年に日本発送電の最後の総裁であった。同年(1952)、松永は電力技術の研究開発を効率的かつ国家介入など外圧に影響されることなく実施するため、9電力会社の合同出資でありながら、完全中立を堅持する公益法人として、民間初のシンクタンク・電力中央研究所を設立し、晩年に自ら理事長に就任した。
世論の抵抗にあいながら電力値上げが認可され、電力の株価は回復し、海外からの資金導入も出来るようになり、電力業界は活気を取戻した。それによって2年あまりのうちに 200万kWの電源開発がおこなわれ、わが国の復興に大きく貢献した。そして、新鋭火力発電所建設に必要な資金を海外から調達することができた。こうして、わが国の電力事業の発展の基が築かれたのである。

松永は戦前から一貫して電力事業に国家が必要以上の介入をすることに反対しており、日本発送電設立に賛成する官僚を「人間のクズ」呼ばわりするほど官僚嫌いでもあった。委員会では孤立しながらも持論を押し通し、最終的にGHQの後ろ盾もあって一応の決着なったが、周辺はその手法が強引だとして「電力の鬼」と言われた。


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その間にも、特に問題になったのは只見川で、建設中の本名・上田発電所の水利権帰属を巡って東北電力と東京電力の2年におよぶ法廷闘争になったほか国会でも問題となり、ついには東北地方対関東地方・新潟県の対立にまで発展した。また、中部地方においても木曽川本流の水は水力発電に限っていえば、流域である名古屋市を中心とする中京圏ではなく、流域外の大阪市など関西圏に電力を供給するために利用されているという状況が続くことになった。


沖縄電力は、米軍統治下の1954年2月に琉球列島米国民政府の出資で発足した琉球電力公社を、1972年5月の沖縄本土復帰に伴って沖縄県が発足するに及び、国と県が出資する特殊法人として再編したものである。このためかつては沖電を除く9社を“電力9社”と呼んでいた。現在では沖縄電力は民営化され、電気事業連合会に加盟している。

1995年、世界的な規制緩和の流れを受けた電気事業法改正に伴う電力自由化により、電力会社に卸電力を供給する独立発電事業者 (Independent Power Producer、IPP) の参入が可能になり、また大型ビル群など特定の地点を対象とした小売供給が特定電気事業者に認められた。これにより、異業種からの電気事業への参入が相次いだ。

さらに半世紀、旧通商産業省時代から経済産業省へとほぼ切れ間無く各電力会社への天下りが行われている。2011年に行われた経済産業省の調査によると、経済産業省から電力会社への天下りが過去50年間で68人あったとの調査結果を発表した。原子力安全・保安院の上部組織の経産省が天下る電力会社とこのような癒着であれば、チェック機能も甘くなっている。

経産省の松永次官を呼び出してつるし上げるべきでしょう。彼こそ石田エネルギー庁長官を東電に送り込んだ人物であり、民主党は天下りでないといい逃れている。松永次官は原子力安全保安院の院長を歴任して、福島原発の津波の想定を5,7メートルに決めた本人だ。そして柏崎原発事故の教訓を生かさなかったのも彼のせいだ。

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昭和5年、柳窪(現東久留米市)から江戸時代の民家を移築したという風格ある建物「黄林閣」(国指定重要文化財)はじめ、書院造の「斜月亭」、茶室「久木庵」、それにみごとな苔庭と閑雅な竹林を別荘・柳瀬荘として残存。 茶の湯に目覚めたのは還暦を過ぎてからとされ、耳庵の号は論語の「五十にして天命を知り、六十にして耳に従う」からつけたもの。益田鈍翁、原三渓などとともに近代の数寄茶人(三茶人)といわれるが、原三渓(横浜の三渓園で有名)から譲り受け川村瑞賢遺構の茶室「春草盧」は国立博物館の庭園へ。秋の庭園開放で見学可。

昭和13年には、原三渓の世話で飛騨高山付近の田舎家を平林時脇に移築して草庵とした。昭和46年に小田原市で、97歳で亡くなったが、自ら傾倒していた臨済宗の石室善玖によって開山された平林寺に遺言通り埋葬された。人柄は自由奔放、一本気で負けず嫌い。質素で贅沢せず、一代で築いた財産は子孫に残さず、世のために寄付。本人の強い遺志により葬儀も法要も行われず、法号も付けない。夫人と並んで墓碑が立ち、その背後に「耳庵」と彫られた自然石の墓がひっそり。180pと背が高く、晩年の風貌は仙人のよう。自著も多く、「我が人生は闘争なり」の言葉はじめエピソードを数多く残した。

参考
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife/3860/biografias/yasuzaemon2.html
posted by Nina at 11:49| 千葉 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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