箱根駅伝の創立者・金栗四三は、日本のマラソンの父とも言われます。
明治44年(1911)、翌年に開催されるストックホルム五輪に向けたマラソンの予選会に出場した金栗選手は、当時の世界記録(但し、当時は40・225km)を27分も縮める大記録を出し、日本人初のオリンピック代表選手となります。そうして迎えた翌45年(1912)のストックホルム五輪でのマラソン競技当日、ストックホルムは、気温40℃を超す記録的な暑さの中で競技が始まりました。レースへの参加者68名中、およそ半数が途中棄権をし、そのうちの1人は翌日に亡くなるという過酷な状況だったのです。金栗選手も同様に、レース途中で日射病で意識を失い、近くの農家で介抱されます。
明治44年(1911)、翌年に開催されるストックホルム五輪に向けたマラソンの予選会に出場した金栗選手は、当時の世界記録(但し、当時は40・225km)を27分も縮める大記録を出し、日本人初のオリンピック代表選手となります。そうして迎えた翌45年(1912)のストックホルム五輪でのマラソン競技当日、ストックホルムは、気温40℃を超す記録的な暑さの中で競技が始まりました。レースへの参加者68名中、およそ半数が途中棄権をし、そのうちの1人は翌日に亡くなるという過酷な状況だったのです。金栗選手も同様に、レース途中で日射病で意識を失い、近くの農家で介抱されます。
当時、日本からスウェーデンへの移動は船や列車を乗り継いでの旅で、約18日間、スウェーデンの夜は明るいため、十分な睡眠も取れない様態であり、不運はさらに続き、競技当日に金栗選手を迎えに来るはずの車が来ず、金栗選手は競技場まで走っていくことになり、消耗に消耗を重ねて不本意にも翌朝まで意識不明。棄権の意思表示もしないままで競技中に行方不明にされてしまう。言葉が通じない、携帯がない不便さがこんな珍事も起きてしまうのです。
昭和42年(1967)3月、金栗選手はスウェーデンのオリンピック委員会から、ストックホルム五輪開催55周年を記念する式典に招待されます。記念式典の開催に当たって当時の記録を調べていたオリンピック委員会がこれに気付き、「是非とも金栗選手にゴールしてもらおう」と記念式典でのゴールを計画、招待を受けた金栗選手は55年振りにストックホルムを訪れ、競技場内に用意されたゴールテープを切ります。走行タイム、54年と8ヶ月6日5時間32分20秒3は誰にも破られない記録ですが、最も温かい応援が寄せられたからこそ実現した記録です。
オリンピック委員会の微笑ましいエピソードの主ですが、その後は日本のマラソン普及に大いに活躍をされ、選手の体調、会場、路上の整備に十分な配慮がされて歴史ある箱根駅伝大会に繋がっています。
中央学院大学に声援を送りつつも、今回、東北のエース柏原の東洋大が大会四連覇は地元の福島への応援エールだったのは間違いありません。
昭和42年(1967)3月、金栗選手はスウェーデンのオリンピック委員会から、ストックホルム五輪開催55周年を記念する式典に招待されます。記念式典の開催に当たって当時の記録を調べていたオリンピック委員会がこれに気付き、「是非とも金栗選手にゴールしてもらおう」と記念式典でのゴールを計画、招待を受けた金栗選手は55年振りにストックホルムを訪れ、競技場内に用意されたゴールテープを切ります。走行タイム、54年と8ヶ月6日5時間32分20秒3は誰にも破られない記録ですが、最も温かい応援が寄せられたからこそ実現した記録です。
オリンピック委員会の微笑ましいエピソードの主ですが、その後は日本のマラソン普及に大いに活躍をされ、選手の体調、会場、路上の整備に十分な配慮がされて歴史ある箱根駅伝大会に繋がっています。
中央学院大学に声援を送りつつも、今回、東北のエース柏原の東洋大が大会四連覇は地元の福島への応援エールだったのは間違いありません。