2011年12月25日

布佐のゆかりの人々

NHK「坂の上の雲」をたまたま見ることになりましたが、日露戦争へ至る時代を司馬遼太郎の全8卷の歴史小説が原作です。海戦を美化するようなことになるからと作家本人は映画化の話などはすべて断り、家族にも映像化には応じないように遺言したと言われますが、何度も局側がご家族の意向をくむとの説得して、放映に至ったのだと聞きます。多くの命を奪った、血塗られた戦争であっても、ドラマになってはしまうと英雄譚になりがちなのは確かです。そうでなければ、誰もお金を払って映画館にいかないですから。今回は、戦争という時代の歴史の一端を学ぶことになりました。

ところで、布佐の竹内神社の境内に珍しい英文の戦勝碑があります。

「IN MEMORY OF THE CONQUEST OVER THE RUSSIAN」と刻まれています。

明治三八年一月一日旅順陥落之日建としてあり、建立者には、七人名です。
榎本次郎右衛門(衆議院議員)、大澤岳太郎、松岡鼎(医師)、柳田国男(民俗学者)、松岡静雄(海軍軍人、言語学者)、井上二郎(手賀沼新田開発指導者)、一色正輔(旧布佐町長)と布佐ゆかりの当時の名士ばかりです。

柳田国男の名前もあります。民俗学の祖・柳田国男の旧姓は松岡で、この時は31歳。弟の静雄の名前も建立者の中にあります。海軍は旅順海戦では海軍が戦績を残せなかったので、旅順の要塞を陥落させたとあってで桜を500本寄贈し、建立碑にしるしたのでした。

もう一人の、布佐ゆかりの人、岡田武松はバルチック艦隊との海戦の時の天気予報官を任され、「天気晴朗ナルモ浪高カルベシ」との予報が、東郷平八郎らの艦に打電され、「天気晴朗ナレド浪高シ・・」の原文になったというわけでした。

後に、藤原咲平とともに気象の一大学派をつくります。そして、直木賞作家の新田次郎は以前は気象学者として我孫子の旧気象送信所(気象台跡地記念公園)に勤務していました。藤原咲平は新田のおじに当た人でした。1943年  満州国観象台(中央気象台)に、高層気象課長として転職、そこで次男正彦誕生(後、エッセイスト・数学者)、1945年 - 長女咲子(作家)誕生。新京でソ連軍に捕虜となり、中国共産党軍にて一年間抑留生活を送ったこと、引き揚げ体験を妻・藤原ていが『流れる星は生きている』として発表、先に作家デビューを果たしました。

捜してみると、文学の里のように色々な作家、芸術家が、そして歴史的な人物が我孫子に住んでいたようです。

posted by Nina at 11:49| 千葉 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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