2011年08月13日

引き裂かれた沖縄の兄弟

戦前より、沖縄は貧しいため海外への出稼ぎ移民が非常に多かった。琉球処分後、沖縄県となった以降には、本土からの差別も受け、正確な日本語の使用という厳しい指導もされた。

そんな状況の中で東江康治さん(琉球、名桜両大学の学長を務めた)と平之さん(琉大名誉教授)兄弟の兄2人も米国に渡った。兄たちは、アジア人への人種差別を受けながら、更に日本人というために敵性外人として米国社会の中での強い敵視にさらされた。兄の1人は徴兵を拒否したが、財産を没収されて日系強制収容所で3年半を過ごした。もう1人の兄は、米社会の差別と偏見に歯を食いしばり耐えるが、生きる道として米国社会へ忠誠をみせることを求められ、米軍人となることを選ばざるを得なかった。もし、沖縄に派兵されれば直接沖縄を攻撃するなどということも避けられない。遂には戦争末期の沖縄に赴くことになったのだが、通訳であったため戦うことなく最悪の事態から免れた。

終戦前年、沖縄大空襲以降の地上戦は壮絶だった。沖縄全土の中学生男子が戦場へと駆り出され、 戦前の教育は彼らを鉄血勤皇隊としていた。このため、兄は弟たちと戦場で「敵と味方」になる非情な運命にみまわれた。奇跡ともいうべき父との再開によって、壕の中の弟たちに投降を呼び掛けることになり、逆に2人の命を救うことができた。

戦前の沖縄には、大学や高校・高等専門学校といった高等教育機関は一つもなかった。師範学校・青年師範学校(大戦末期に高等教育機関化)のみだったが、戦後に米国留学した平之さんは「民主主義に触れ、誰でも平等に教育の場に受け入れる人々と出会い、米社会の懐の深さを感じた」という。

占領後の1950年に新制国立大学として琉球大学が誕生、その際は米国政府認定の大学という特殊な形での大学開設であった。戦後27年を経た1972年にようやく本土復帰し、大学は文部省に移管された。東江康治(あがりえやすはる)さんは、1984(昭和59)年 6月 1日 〜 1990(平成 2)年 5月31日の間、第11代琉球大学長を務め平和教育に力をいれた。

我孫子では、手賀沼公園入り口にある平和の碑の前で、市長をはじめ中学生代表の参加で毎夏行われるようになった原爆平和記念式典だが、この沖縄の兄弟の数奇な運命がドラマ化され放映されたのは同じ13日の夜だった。
http://www.fujitv.co.jp/fujitv/news/pub_2011/110714-162.html

posted by Nina at 22:00| 千葉 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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