2010年08月15日
「戦後60周年平和事業記念誌」に寄せて
下記は、我孫子市の60周年平和事業の記念誌に掲載されたもので、被爆者の会の方たちにも確認いただき、書き記したものです。
戦後60周年に思うこと
海津にいな(つくし野在住)
手賀沼公園に、広島の慰霊碑を模した三角形の平和の記念(モニュメント)碑があるのをご存知でしょうか。暑い8月に、被爆者の会主催による平和記念式典も続けられてきました。「広報あびこ」に式典の日程が掲載され、私がそれに目を留めて式典に初めていき合わせたのは1993年(酉年)、丁度12年前でした。その夏は、我家にアメリカ人高校生が3ヶ月ほどホームステイしました。間もなく帰国というのに一度も手賀沼公園に連れて行ったことがなかったので、平和式典の日時に合わせて行ってみました。週末の朝であり、人数のすくない式典には近づきがたい雰囲気がありました。その様子を見ながら、しかし被爆地でもない我孫子でなぜ原爆慰霊祭をしているのだろうと不思議に思いました。『ヒロシマ・メモリー、千葉県我孫子市に生きる被爆者』(1982年:市職員組合刊行)と本を手にし、千葉県に被爆者が3千人以上もいることを知ったのはそれからでした。終戦前年(1944年)、徴兵の改正で年齢が18歳にまでに引き下げられ、我孫子からも更に多くの若者が出征しました。我孫子の配属先は佐倉の連隊であり、「総武第2795部隊」として3200名に再編、終戦の年の7月には広島郊外の加茂郡原村(八本松)に駐屯していたので、部隊は広島市内での救援活動と遺体処理作業を命じられました。10日程の作業で、兵士も強い残留放射能を浴び二次被曝しました。「我孫子市原爆被爆者の会」は1978年に発足、翌年には自治労我孫子市職員組合が協力して聞き書きの本を作ることになりました。幸いにも、“藤正(ふじまさ)さん”と通称された開明的な渡辺藤正市長のときに戦後40周年で、平和都市宣言がされました。折りしも旧広島市庁舎を取り壊すとの記事を目に留め、染谷会長(初代)は平和記念碑を建立しようと奔走しました。市の協力を得て軽トラックを借り、柏市、八千代市の分も譲り受けてきたということです。被爆した旧庁舎の敷石、側壁の石は設置されるまでのしばらくの間、議会棟に安置され平和記念碑の前面に石が設置されました。記念碑が出来たころは、アビスタが建設される以前の旧公民館の頃で、木立に囲まれ人目にあまり触れない場所でした。真夏、8月には市長、議長らも出席し平和記念式典は続けられてきました。 あるとき、助役に我孫子の生徒たちも参列させてはと話したことがありました。原爆投下の際に広島にいた助役は、「被爆者の方々がお子さんや孫を参列させないし、まして被爆者である事を他言したくないと思うのだから、市内の生徒を参列させることは難しいのでしょう。」と言われました。被爆者は放射能の影響による健康不安ばかりでなく、就職、結婚などで差別を受けることもありました。そのため被爆者手帳も申請せず、専門医療を受けない人もいたのです。「ヒロシマ・メモリー」に協力した被爆者へも年齢性別だけで名前を明らかにしているのは会長の染谷政富さんだけです。組合職員は信頼関係をつくり熱心に取り組み、刊行までに3年かけて纏めたということです。戦後60年たって、被爆者の方たちは相当に高齢となられました。市内の中学生らを含め100人を超える参列者を被爆平和記念式典に招き、戦後60周年の黙祷を捧げ、2度と戦争を起こさないようにと平和を祈りました。市内生徒の代表は、四半世紀ぶりの我孫子からの平和使節派遣として広島の式典にも参加しました。広島派遣で、生徒たちは救援活動での二次被曝やお母さんのお腹での体内被爆、強制連行で被爆した中国・朝鮮の人たちが多くいたことも知ったでしょう。被爆者が真剣に平和への祈りを続け市民として力強く生きたことや戦争の犠牲者の上に今の平和な日本が作られたことなど、次世代にも地域の人々の努力を理解し継承して欲しいと考えておいでです。我家にホームステイした高校生は、米国で“裸足のゲン”というアニメを授業で見て原爆の恐怖を知ったのでした。日本人が焦土と化した国を復興させたのに感心し、一粒の麦のように芽を出していく日本人の精神力に敬服したと話していました。被爆者の凄まじい苦しみにショックを受けたし、当時に学生だったなら大統領に抗議したと言うのでした。ある被爆者に彼女の話を伝え、外国人にも我孫子の記念碑の意味が分かるようにするといいですねと話したことがありました。国際交流のボランティアで英文の説明も加えられ、銅版プレートが設置されました。この留学生の話は「AIRA(我孫子市国際交流協会)」の広報紙に紹介されました。干支が一回りした酉年の2005年、その彼女から「結婚しました。佐世保に住んでいます。赤ちゃんが生まれます。」と便りがきました。我孫子からの祈りが、世代や国境を超えて語り継がれ平和を護るようにと心より願っています。
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