大好きな人、その声や笑顔は生きる支えになる。
そういう存在が、自分の気持ちを、明るく、幸せな状態にする。その人の生き方、考え方、ライフスタイルが自分の人生にとっての刺激になり、自分自身を再確認することにもつながる。ともかく、その人のことを考えるだけで生きていくことを納得できる。そんな人、ポール・ニューマン(Paul Leonard Newman,1925年生まれ)が、今月26日に亡くなった。澄んだ青さが際立って印象的な目の俳優だった。自らの幾多の不幸をも乗り越えながら、多くの人に惜しまれて、輝かしくその生涯を終えた。アカデミー賞など、多数受賞。
俳優、監督業の他、政治活動にも積極的で、政治的にはレフティー(左派)を自認する人だった。ブッシュ政権では富裕層の相続税減税について「私のような金持ちから税金を取らないのは馬鹿げている」と主張していた。ハリウッドでは、政治活動にも果敢に挑む人が多い、シュワルツネッガー、イーストウッド、そしてレーガン。政治、哲学があり、そしてそれを主張できるくらいの自分があるからこそ魅力的な演技をしえたのだと思う。心よりご冥福をお祈りしたい。
<私が見たP.ニューマンの映画作品>
熱いトタン屋根の猫 Cat on a Hot Tin Roof (1958)
ハスラー The Hustler (1961)
レーチェル レーチェル Rachel, Rachel (1968) 監督のみ
明日に向って撃て! Butch Cassidy and the Sundance Kid (1969)
スティング The Sting (1973)
タワーリング・インフェルノ The Towering Inferno (1974)
ハスラー2 The Color of Money (1986)
ニューマンは父がハンガリー系ユダヤ人、同じくカトリックの母との間に誕生した。幼い頃は体も小さく、学校ではいじめを受けたが、7歳の時、演劇好きの母の勧めで児童演劇団に入団。そこで舞台に立ったが当時は演劇にさほど関心がなく、それでも12歳の時、オハイオ・クリーブランドの児童演劇部に入部した。高校卒業後は定職に就かずアルバイトし、家業を継ぐために経済学部で入学、すぐに第二次世界大戦が勃発し航空機操縦士を志願するが色盲により叶わず海軍入隊。 1944年、航空機無線手としてハワイに、1945年春、空母に乗艦し沖縄戦に参加。終戦後に大学でフットボールに打ち込むが、チーム内の喧嘩が原因で除名処分を受けたため、子供の頃に学んだ演劇の道に進んで、注目されるようになり、マーロン・ブランドらのアクタースタジオに所属した。

今日のFOX・TVで、映画「スティング」で共演して以来の長い家族ぐるみの友人だというレッドフォードが、「高潔な男(ひと)だった」と、語っていたところにちょうどチャンネルを合わせた。名女優ウッドワードとの再婚後、6人の子供を得ておしどり夫婦ぶりは知られており、「家でステーキを食べられるのに、わざわざ外でハンバーガーを食べる必要はないさ。」と語っているように、家での食事を大切にして添加物を使わないサラダドレッシングが自宅のパーティで好評になると会社を設立、売り上げは全額寄付していた。ボランティアの社会活動も数多く続けてきていた。 まさにノーブル・オブレージという言葉にふさわしい、ポール・ニューマンは素晴らしい人だと想う。

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