我孫子市には、昭和6Oに設置された平和の記念碑があります。手賀沼公園の入り口にあるトライアングルの形に似たモニュメントで、広島平和記念碑(イサム・ノグチ作)を模した形にしてあります。その記念碑を囲む花壇に花を絶やさず、毎日水遣りをしたり、真夏の炎天下での式典も被爆者の会の方がずっと守ってこられていました。
実は、我孫子から出征された多くの兵士が広島にも駐屯されての被爆、広島市民の救援に当たる中で更に二次被爆されたのですが、今で言う救援活動にあった方たちが放射能の病苦に人知れず、苦しんで亡くなられていた。数少ない生き残りの兵士のお一人が当市の被爆者の会を立ち上げて、悲惨な戦争と亡くなられた方々のことを忘れないようにと広島庁舎の被爆した敷石などを譲り受けて記念碑を作り、後世の我孫子市民が二度と再び戦火に巻き込まれないよう伝えたいと一生懸命にされたからです。風化させず、碑を守る意味をしっかりと継承していこうと、初代我孫子市長、職員、また議会も真摯に受け止め、多くの方の善意と協力を得て、手賀沼公園の入り口につくられた碑の除幕式をしたということです。我孫子市の「平和都市宣言」の宣言文も同時につくられ、そのことは、我孫子市の広報のみならず、新聞全紙に報道され地域に受け入れたのです。
その大切な原点が顕彰され、条例化されるように、若い市民の方々とも活動してきましたが、今夏に条例化されるのは大変に嬉しいと被爆関係者も喜んでいます。海津にいなは、平和条例の制定の為に議員の初議会から取り組み、被爆者の会の皆さんのみならず、我孫子市民の広い層が平和希求の意識が強いことを更に知り、市民協働で提案して4年を掛けて取り組んできました。議員立法の難しさなどを勉強しながら、市民草案を土台に執行部からの議案が提出された。議案大綱質疑、賛成討論にもたち、成立に尽力しました。
平和に関する活動は、とかくイデオロギー、憲法問題にかかわると捉えられて、議会をとおすには難問のところがあります。そのため、条例制定を願う陳情から今日までに4年の歳月が掛かりました。市長および議会の改選を挟んで、「我孫子市平和事業推進条例」が6月議会に制定の運びとなりました。巷では平和ボケなどとの言葉がささやかれますが、若い人々も加わって我孫子の歴史を学びながら市民の意志によって、平成20年の節目に結実したのは我孫子ならではです。
市国際交流基金を財源にしているので、国際平和を発信する活動も今後期待されています。なお、碑の脇に英文プレートが取り付けられれていますが、これは我孫子市にホームステイなどでやってくる外国人学生らが質問した際に答えられるようにと、地元の国際交流のグループの協力で翻訳されて取り付けれました。
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柏市役所前にも平和の碑がある。
碑に設置された被爆石は我孫子市
の被爆者の会が同時に運んできてもの。
碑に設置された被爆石は我孫子市
の被爆者の会が同時に運んできてもの。
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