NHK Eテレの「日曜美術館」で戦後新宿・渋谷をつくった建築家 の坂倉準三氏について、その建築を再評価した映像を放送していた。戦後の日本の優れた建築を牽引してきた建築家の設計が間もなく、老朽化で新たな設計者の基礎を作りながら変わっていく時期になった。
まず、坂倉の経歴は、老舗の四男として誕生、東京帝国大学文学部美学美術史学科美術史卒業、翌年(1928)- 兵役に就く。
徴兵を逃れるためであったというが、1929年(昭和4年)渡仏し、パリ工業大学で学ぶ。1931年 ル・コルビュジエの建築設計事務所に入る。1936年(昭和11年) 帰国後、パリ万博(1937年5月25日 - 11月25日)の日本館建設のため、再びフランスへ。
1939年(昭和14年) - コルビュジエの象徴的なモダニズム建築であるサボア邸の建築神髄「新しい建築の5つの要点(ピロティ、屋上庭園、自由な平面、水平連続窓、自由なファサード)」(近代建築の五原則)を学び、仕事を手伝った後に帰国。
現在に残る名建築を手がけ、東京文化会館(1961)や東京都美術館(1975)国立西洋美術館新館(1979)などを設計した前川國男も、コルビュジェに学び、坂倉は前川の紹介でル・コルビジェに就いて学ぶことになった。
坂倉の設計には、日本建築とモダニズムを併せ持つ新しいデザイン設計が特徴的である。最も、ル・コルビジェの教えを具現化したのが神奈川県立近代美術館と言われ、歩いて感じるというコルビジェの学びを考えて、開放的にできている
そこに「ゆらぎ」「自然と人工の対比」という、コルビジェにない自然と文化の継承を加えたのが坂倉の建築であった。
再開発で渋谷の建築は姿を消す。昭和52年、渋谷駅に後藤圭太の希望による「東急会館」を道路の上を二つをブリッジをかけて、複合会館の魁とする設計をした。しかし、その中にも坂倉は、奇抜さではなく使う人のことを第一に考えた。動物としての人間の生理を先に考え、人のための人に寄り添った建築を心掛けたという。
新宿西口に地下に泉と光をもたらした広場つくり(1966年)、大阪難波の都市計画も坂倉によるものである。その後に取り組んだのが芦屋市民センター ルナ・ホール(1969年)だった。彼の地に住み始めた時に、何度か通ったので、そのどこかユニークな設計だと感じたが、今さらに古里のような懐かしさがある。
坂倉の50代には、生誕地である三重県羽島も一町九村合併の際の市長舎の設計を引き受ける(1959年)。安土桃山時代の歴史を受ける土地柄であり、地上から公民館・図書館へとの合築で、最上階から町が全貌できる。2025年解体となった。
また、伊賀市に残る市庁舎(1964年)設計も、中庭の風情など、モダニズム建築の成果が残っている。こちらは、機能を変えて使い続け、その感動を伝えて、図書館、観光ホテルなどに、保存活用するという。