昭和45年のNHKで放送された「日本史探訪」という番組で平将門について故・赤城宗徳氏と故・大岡昇平氏とが対談、下記は番組の概要です。
平将門の平安時代は招聘婚で、嫁の実家に夫が訪ねていくのが正式でした。で、平真樹の娘と婚姻をしています。平真樹が源護に敗れると将門の領地も危うくなるような状況でしたから、平将門は平真樹の「源護との争いを仲介してほしい」という頼まれ事を了承する事となります。良兼の娘も将門の妻となっていたのが、『将門記』の女論とされる箇所でわかります。(度重なる戦乱で将門の正室と子が亡くなり、良兼との戦乱で娘を略奪婚のようですから、そりゃ、良兼の大事な娘を略奪されたら怒るわけです)。
一族の女性に関わることは、その領地を受け継ぐ者にも関わる重大な縁結びなので、ここから源護や平国香や良兼らとの一族内での紛争が始まりました。
両者ともに主力は半農半兵の家族単位で出来た「伴類」という勢力。当時、京と比べると東国の暮らしは見劣りするうえ、生活条件も悪いです。将門自身が騎馬戦に秀でていたこともありますが、伴類の中にも蝦夷征伐から帰ってきた腕っぷしの強い人たちも含まれていたこともあって、朝廷が出て来るまでは戦は優位に進められました。将門の乱の最後の方には一種の軍事組織の様なものも成立していたようです。
大岡氏と赤城氏の対談では、軍事力を養わなければ同族との争いに勝てないけれど、軍事力を大きくし過ぎるとその維持ために支配権を広げなければ養っていけない。それが国府攻撃に繋がった。その後、結局は国の最高権力まで侵し京都からの正規軍が来たという事で伴類たちが怯んでしまったことで敗れたのではないかという旨を話していました。
その後、将門の従類(将門を支えていた将門の重臣たち、多くは6人程の弟)の敗走を哀れ思った、村人が権力に屈さず権勢を振るう貴族たちの世にモノ申し、その時の風の流れに落命してしまう。しかし、受け入れられない者を代弁してきたこともあって多くの逸話や伝説として残り続けました。庶民文化が盛んになる 江戸では、権威に屈しない英雄、佐倉惣五郎や義経の判官びいきもあって、人々の崇拝の対象にされていく、という事だそうです。
なお、将門を葬った墳墓周辺での天変地異が相次いだことから1309年に神田明神に合祀されることになりました。この神田明神は江戸幕府を開く際に江戸城から見て鬼門に当たる場所に遷座され、江戸の町の守り神となったそうです。それは幕府が行う政治に朝廷は関与させないよという決意を表しているとも言われています。
参照ブログ https://rekisi-daisuki.com/entry/2015-11-26-101335