観音寺の創立に関しては、歴史資料に乏しいため伝承によるところが多くあります。
『湖北村誌』には、「古くは將門神社の境内に仏堂が営まれ、平將門の守本尊の行基菩薩作観世音像を安置し、茨城県守谷村(現守谷市)の天台宗西林寺から徳道和尚を請して開祖とし、大悲山和泉寺と称した。」と記されていますが、村の伝承では、将門が幼少期にこの地で過ごしたという説、手賀沼を南方より騎馬のまま渡り、台地に登って朝日を拝したという説、その拠点に「神社」を建て、軍用に使用したとも敵の首を洗ったともいわれる「石井戸」を造った、「首洗い井戸」との呼び名など様々です。
将門敬愛の思いは厚く、タブーとされる事項がいくつかあります。「成田参詣はしない」「桔梗の花は植えない」「桔梗の柄の書かれた物は使用しない」「胡瓜を輪切りにしない」等・・・なかでも成田山に関しては、観音寺境内に建てられたお地蔵様は成田山にそっぽを向いています。
この縁起書も、長い時間の経過によって虫食いなど、ボロボロの状態でした。
そこで、修復の専門業者に依頼して素晴らしい技術により修復されるということになり、3月28日 無事納品されました。
それが時を経て現在の位置に移され、改めて観音寺として創立されたといわれています。
曹洞宗観音寺としての創立は寛文2年(1662)といわれ、開山は現我孫子市湖北台にある曹洞宗正泉寺の九世名翁全誉大和尚、開基を長安常久禅定門と伝えられています。