神武天皇、教育勅語、万世一系、八紘一宇……。私たち日本人は、「戦前の日本」を知る上で重要なこれらの言葉を、どこまで理解できているでしょうか?さらに「日本の初代天皇」とされる「神武天皇」のお墓がどこにあるか、徳川の時代の後に革命的に始まった「戦前の日本」の知られざる神代の時代です。
さまざまな見方がされる「戦前日本」の正しく理解することは、日本人が時代を科学する姿勢と言えます。
右派のこだわりはは「美しい国」とやんごとなく誇り、左派は「暗黒の時代」として怖れる。
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歴史研究者・辻田真佐憲氏が、「戦前とは何だったのか?」をわかりやすく解説します。
戦前に皇族が靖国神社で祀られなかった理由
以上を踏まえると、能久親王や永久王は靖国神社に合祀されてもおかしくないはずだ。なぜ、戦前はノーとなるのか。病死だったり、事故死だったりするからか。いや、そうではない。その理由はかれらが皇族だったから──ということに尽きる。
つまり、靖国神社はあくまで臣民を対象にした神社だったのだ。それゆえ、能久親王は台湾神社などに、永久王は蒙疆神社に、それぞれ祀られたのだった。このような区別は、社格をみると一目瞭然だった。社格とは、1871(明治4)年5月に定められた、神社の格付けをいう。靖国神社は東京招魂社から改称されたとき、上から7番目の別格官幣社に列せられた。より上位の社格は皇族や神々を祭神とする神社のためのものだった。
最終的に確定した社格:
官社:官幣大社、国幣大社、官幣中社、国幣中社、 官幣小社、国幣小社、別格官幣社
諸社:府県社、郷社、村社、無格社
官社は神祇官(後述)が管轄する神社であり、諸社は地方官が管轄する神社である。能久親王と開拓三神(大国魂命、大己貴命=オオクニヌシ、少彦名命)を祀った台湾神社は1番目の官幣大社、能久親王のみを祀った台南神社は3番目の官幣中社だった。
いかに英霊(このことばは日露戦争を契機に定着した)とはいえ、靖国の祭神はもともとただの一臣民。生まれながらの皇族や神々にはかなわないというわけだった。そもそもこの社格はなんのために設けられたのか。これもやはり明治維新の理念「神武創業」と関わっていた。
江戸時代まで、神道と仏教は混合されており(神仏習合)、神社と寺院の区別も曖昧だった。神職が仏像のまえで念仏を唱えるなどという光景も珍しくなかった。天皇家も仏教を厚く信仰しており、第1章で触れたように、京都御所に仏壇(御黒戸)があったほどだった。明治政府はこの神仏習合をキャンセルすべき中世の悪習と考え、神仏の分離を指示。
さらに古代の祭政一致を取り戻すとして、神社行政をつかさどる神祇官を復興させた。そこで神社は「国家の宗祀」(国家の祭祀施設)とされ、神職は官吏化されて世襲を禁じられた。宮中祭祀からも仏教色は一掃された。
このような動きのなかで行われたのが、神社の序列化だった。近代創建の神社では、神武天皇を祀る橿原神宮、桓武天皇・孝明天皇を祀る平安神宮、後醍醐天皇を祀る吉野神宮、明治天皇を祀る明治神宮などは官幣大社とされた。
これにたいして、護良(もりよし)親王を祀る鎌倉宮、恒良(つねよし)親王・尊良(たかよし)親王を祀る金崎宮、懐良かね よし親王を祀る八代宮などは官幣中社とされた。つまり、天皇が祭神だと官幣大社、皇子だと官幣中社になっている。例外もあるのだが、祭神で社格を区別していたことがわかる。官幣社・国幣社の名称は、古代の制度に由来し、神祇官が幣帛(へいはく)をたてまつる(おもに畿内近辺の)神社を官幣社、地方の国司が幣帛をたてまつる神社を国幣社と呼んでいた。ただし、近代の制度ではこの限りでなく、国幣社には地方の一の宮(島根県の熊野神社、新潟県の彌彦(いやひこ)神社、宮崎県の都農(つの)神社ほか)などが列せられた。朝廷とのゆかりが深い22社(石清水八幡宮、賀茂御祖神社、賀茂別雷神社、松尾神社ほか)などは、すべて官幣社だった。
なお、伊勢神宮はすべての神社を超越した存在として、社格の対象外とされた。
伊勢神宮、とりわけアマテラスを祀る内宮がこのように別格に扱われたのも、近代になってからのことだった。
ただし、アマテラスなど最高格の神を祀っていても、小さな神社は下位の社格にとどまった。
祭神の尊貴さと社勢の大きさを総合して判断が下されたのである。また社格は流動的であり、県社から官幣小社へ昇格することなどもあった。
※本記事は辻田真佐憲『「戦前」の正体』(講談社現代新書、2023年)から抜粋・編集したものです。
出典c 現代ビジネス