中国のSNS・小紅書(RED)に2月4日、「日本の飲食店が中国人観光客を歓迎しない本当の理由」との投稿があり、反響を呼んでいる。
投稿者は中国人観光客向けに日本の飲食店などの予約代行サービスを行っているようで、「以前は多くの飲食店の予約を取り、お客さんはみんなきちんと時間を守っていた。もちろん、私もお客さんに『時間通りにお店に行ってください。変更があればすぐに連絡してください』と再三念を押していた」と説明した。
しかし、「この頃、無断キャンセルをするお客さんが3組も出た。いずれも、何の連絡もなく店に現れなかった。さらにひどいのはそのうちの1組は11人だった。予約の際に私は4回電話し、3通メールを送り、お店に繰り返し確認して受け入れてもらったのに、彼ら(客)はすっぽかした。お店は好意的にも、メールを送ってきて事故に遭ったんじゃないかと心配までしてくれた」とし、「どうりで日本の飲食店が中国人客を歓迎しないわけだ。急にものすごく共感した」とつづっている。
中国のネットユーザーからは「本当に最悪」「信用のない人間はどこに行っても歓迎されない。普通のことだ」「飲食業界の人はどこの国であろうと中国人客を歓迎しないだろう。中国の飲食店でさえも」「日本は飲食店だけでなく多くの場所で中国人観光客を歓迎しない。ルールを守らず、モラルが低い。それが彼らの共通の印象」「そこら辺に痰を吐き、歩きたばこをするような人に約束を守らせるのは確かに難しい」「契約精神がごみのよう。だから他人に契約を履行させるのは限界がある」「今後は先に料金を徴収しておいた方がいい」といった声が上がった。
また、「この前、日本のブランドショップで3人の中国人がゆっくり試着していた。1人の携帯電話が鳴って、予約した店から催促の電話が入ったようだった。しかし、別の2人は『無理なら行かなきゃいい』と平然と言っていた」「友人Aと友人B夫婦と一緒に関西に旅行に行った。飲食店を予約していたが、B夫婦は屋台で食べておなかがいっぱいだから行かないと言い出した。仕方なく友人Aと店を訪れたが、予約の人数分の料金を支払わなければ料理を提供できないと言われた。それをB夫婦に伝えたら、Bは自分たちの分の料金を後で払うから(2人で食べて)と言ったが、Bの夫はなぜ食べてもいないのに金を払うんだと言って、結局店に食べにきた」といった体験談や、「今回の日本旅行では特に日程を決めず、行った先にあった店で食事をしたが、どこも良かった。時間を守れないなら予約しない方がいい。自分も時間に縛られないから楽だし」とのコメントも寄せられている。
出典 Record China 2/4(翻訳・編集/北田)
2025年02月02日
将門様の周辺事情、相馬郡衙
https://ameblo.jp/yagekidan/image-12528196806-14595045480.html
県指定史跡 相馬郡衙
指定日 平成7年3月14日
所在地 我孫子市日秀字西60-6の一部ほか
概要
相馬郡衙正倉跡(日秀西(ひびりにし)遺跡)は、千葉県立湖北高等学校の建設に伴い発掘調査が行われ、その中心部分の様相が明らかになった遺跡である。郡衙とは古代(奈良・平安時代)の郡の役所全体を指す名称で、正倉とは徴収した税である稲などを納めた倉庫群を指す名称である。かつての相馬郡は現在の我孫子市、沼南町と柏市の一部、さらに利根川を挟んだ茨城県取手市、利根町、藤代町に相当すると考えられている。
相馬郡衙正倉跡は、東群・北群・西群・南群というように、方位にあわせてきれいに列をなす建物群によって構成されている。検出された建物の大半は、掘立柱を側柱(がわばしら)だけでなく内側にも立てて床を支える「総柱(そうばしら)建物」といわれるもので、倉庫として使われた「高床建物」であると考えられ、このことからもこの遺跡が郡衙正倉跡であると推定された。相馬郡衙正倉跡からは、当時の貨幣である和銅開珎(銀銭)、瓦などの他におびただしい量の炭化米が見つかっている。炭化米の存在は、米を納めていた倉が故意か事故かは別にして、火災に遭ったことを示している。
相馬郡衙正倉跡は、出土遺物から考えて8世紀初頭から9世紀半ば過ぎまでの期間、郡の正倉としての機能を果たし続けていたと考えられている。
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
上記は、県庁に現在掲載HPでの報告内容です。
(千葉県のHPは下線部分を10世紀と修正すべき)
某氏のブログ(2017年 11月 21日)では、我孫子市に建てられた説明板の記載には、千葉県と我孫子市教育委員会との連名で、平成18年(2006)3月として掲示をした時期があったことが分かります。つまり、”10世紀までの遺構”だと我孫子市で明らかになったことから、千葉県にも報告して、記載したと思われます。

ところが、その後、令和元年(2019)に説明板を新しくした時に、その内容はほぼ同内容になのに、千葉県教育委員会が無くなっているのは府に落ちません。
https://ameblo.jp/kofun-0524/image-12878617021-15521338905.html
少なくとも13年間は県は我孫子市の調査に名前を並べていたのが、何故か、県教育委員会との連名がはずされて、県庁の現HPは我孫子市の説明が10Cまでとの表記であるのとは齟齬がでています。
年代認識の多少の誤謬とはよく起きるものなのでしょうが、市で明らかにした調査でも、県教育委員会が認めるに至らない事になるのか、理由が知りたいところです。地元の確実な調査に信頼を寄せて、県庁HPの表記に改めて頂きたい。
いつかやる、というのではなく、直ぐやる、改めて貰いたい所です。世の中に、Webを活用して写真や記録が残してあるので、色々な気づきがあります。
一方で、我孫子市の調査姿勢は、学術的な判断をすることにおいては、西嶋定生教授(東大東洋考古学、我孫子在住、故人)を中核に真摯に進められ、且つ、「市民による市史の編纂」を目指して、注目をされていたのも特徴です。@伝承は時代の流れで変化してしまうため明らかな証拠とは認められないのではないかとの危惧 一方で、A将門神社、観音寺の首曲げ地蔵がある、将門の井戸(首洗い井戸)の伝承が残っている意味は無視できない、また、⓷取手、柏、印西、守谷などの我孫子周辺の寺社には既に昭和時期に教育委員会の説明板が設置されていた。我孫子は令和になっての掲示板設置となっていて、周辺の事情に押され気味です。
我孫子市議会での議論の経緯もあり、令和5年に説明板が、将門神社及び観音寺に設置されたところです。
(但し、我孫子の将門神社は揚羽紋を掲げていますが、市の説明板には九曜紋という、現場との違いアリ)
周辺市に遅れること40年のちに、時代の謂れなどを記し将門神社、日秀観音寺に説明板が立てられ、地元の方々がやっと日秀も陽が当たったと喜ばれました。
つづき
県指定史跡 相馬郡衙
指定日 平成7年3月14日
所在地 我孫子市日秀字西60-6の一部ほか
概要
相馬郡衙正倉跡(日秀西(ひびりにし)遺跡)は、千葉県立湖北高等学校の建設に伴い発掘調査が行われ、その中心部分の様相が明らかになった遺跡である。郡衙とは古代(奈良・平安時代)の郡の役所全体を指す名称で、正倉とは徴収した税である稲などを納めた倉庫群を指す名称である。かつての相馬郡は現在の我孫子市、沼南町と柏市の一部、さらに利根川を挟んだ茨城県取手市、利根町、藤代町に相当すると考えられている。
相馬郡衙正倉跡は、東群・北群・西群・南群というように、方位にあわせてきれいに列をなす建物群によって構成されている。検出された建物の大半は、掘立柱を側柱(がわばしら)だけでなく内側にも立てて床を支える「総柱(そうばしら)建物」といわれるもので、倉庫として使われた「高床建物」であると考えられ、このことからもこの遺跡が郡衙正倉跡であると推定された。相馬郡衙正倉跡からは、当時の貨幣である和銅開珎(銀銭)、瓦などの他におびただしい量の炭化米が見つかっている。炭化米の存在は、米を納めていた倉が故意か事故かは別にして、火災に遭ったことを示している。
相馬郡衙正倉跡は、出土遺物から考えて8世紀初頭から9世紀半ば過ぎまでの期間、郡の正倉としての機能を果たし続けていたと考えられている。
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
上記は、県庁に現在掲載HPでの報告内容です。
(千葉県のHPは下線部分を10世紀と修正すべき)
某氏のブログ(2017年 11月 21日)では、我孫子市に建てられた説明板の記載には、千葉県と我孫子市教育委員会との連名で、平成18年(2006)3月として掲示をした時期があったことが分かります。つまり、”10世紀までの遺構”だと我孫子市で明らかになったことから、千葉県にも報告して、記載したと思われます。

ところが、その後、令和元年(2019)に説明板を新しくした時に、その内容はほぼ同内容になのに、千葉県教育委員会が無くなっているのは府に落ちません。
https://ameblo.jp/kofun-0524/image-12878617021-15521338905.html
少なくとも13年間は県は我孫子市の調査に名前を並べていたのが、何故か、県教育委員会との連名がはずされて、県庁の現HPは我孫子市の説明が10Cまでとの表記であるのとは齟齬がでています。
年代認識の多少の誤謬とはよく起きるものなのでしょうが、市で明らかにした調査でも、県教育委員会が認めるに至らない事になるのか、理由が知りたいところです。地元の確実な調査に信頼を寄せて、県庁HPの表記に改めて頂きたい。
いつかやる、というのではなく、直ぐやる、改めて貰いたい所です。世の中に、Webを活用して写真や記録が残してあるので、色々な気づきがあります。
一方で、我孫子市の調査姿勢は、学術的な判断をすることにおいては、西嶋定生教授(東大東洋考古学、我孫子在住、故人)を中核に真摯に進められ、且つ、「市民による市史の編纂」を目指して、注目をされていたのも特徴です。@伝承は時代の流れで変化してしまうため明らかな証拠とは認められないのではないかとの危惧 一方で、A将門神社、観音寺の首曲げ地蔵がある、将門の井戸(首洗い井戸)の伝承が残っている意味は無視できない、また、⓷取手、柏、印西、守谷などの我孫子周辺の寺社には既に昭和時期に教育委員会の説明板が設置されていた。我孫子は令和になっての掲示板設置となっていて、周辺の事情に押され気味です。
我孫子市議会での議論の経緯もあり、令和5年に説明板が、将門神社及び観音寺に設置されたところです。
(但し、我孫子の将門神社は揚羽紋を掲げていますが、市の説明板には九曜紋という、現場との違いアリ)
周辺市に遅れること40年のちに、時代の謂れなどを記し将門神社、日秀観音寺に説明板が立てられ、地元の方々がやっと日秀も陽が当たったと喜ばれました。
つづき