少年時代の岡田家と松岡(後の柳田国男の実家)家は、布佐の近所であった。二人は、知り合い同士であった。岡田武松の家は、現在「布佐の風」という近隣センターになり、岡田博士の顕彰コーナーがある。
松岡邸は昭和50年頃まで凌雲堂医院として継がれていた。後に、長兄の松岡鼎は布佐町長となっており、布佐文庫は明治41年に提唱し設立、蔵書は千冊に及んだ。当初は勝蔵院に置かれたが現在は布佐図書館にある。篤志家の松岡家は医学会の関連もあって帝大教授大澤岳太郎とも親交があり、大澤とドイツ人の妻・ユリアが布佐に住む様になってからは良き相談相手となっていた。千葉県医師会長を務めた松岡鼎と、その父母が暮らし、布佐の自宅で昭和31年82歳の生涯を閉じた。
帝大学生だった頃の松岡国男(後に柳田家に養子となった)は、もう一人の東京で眼医者をしている次兄の家に寄宿して、時おり布佐に住む両親がいる長兄の家に戻っていたのである。東京の次兄は森鴎外が主宰する歌会に参加する機会を得て、詩作の才を開花させた。文学仲間となった山田花袋、そして国木田独歩、島崎藤村等とも知り会い、布佐にきて論じ交わった。柳田はこの地で岡田武松と交友し、青春を語り、切磋琢磨した。柳田も後に文化勲章を受けた。