安達 峰一郎( みねいちろうは、山形県出身の外務官僚、国際法学者。法学博士。アジア人初の常設国際司法裁判所所長。(実質的存続期間は1921年からドイツ軍がオランダに侵入した1939年)中に66件が提起され、大戦後は国際司法裁判所に引き継がれている。
非白人として初の常設国際司法裁判所の所長(判事としては国内2人目)。国際法での紛争解決を使命とした安達は、所長就任早々、日本が満州事変を起こした。祖国の暴走を止めることを国際社会から期待される。しかし満州事変が国際法廷で裁かれれば、日本にとって極めて不利な結果になりかねない―。帝国日本は国際連盟を脱退することになる。所長3年の任期を終え、日本の国際連盟脱退問題の悩みから6月に体調を崩し、8月に重い心臓病を発症。アムステルダムにある病院で死去。この時、国際平和に尽力した多大の功績と栄誉を称え、オランダと常設国際司法裁判所による合同葬が行った。
安達の妻・鏡子(かね)は、その後第2次大戦の混乱もあってベルギーのブリュッセルに留まり、帰国したのは1958年。
明治2年(1869)、高楯村(現山形県山辺町高楯)に生まれた。幼少のころから、近くの石川尚伯医師が開いている寺子屋「鳳鳴館」で学問の手ほどきを受け、 6歳で東京の雑誌に詩文をよせるほどの神童ぶりを発揮した。その一方で、年上の子供らを部下にして隣村の子供達と石合戦をするなど、腕白ぶりを物語るエピソードもたくさん残っている。明治17年、東京の司法省法学校に応募し、志願者1千5百余人の難関を、最年少でも2番の成績で合格した。第一高等学校(旧制一高)を経て、(東京)帝国大学法科大学に進学。在学中に、フランス語・イタリア語・英語をマスターし、外国人教師の授業の通訳も勤めた。明治25年、大学を卒業し高沢鏡子と結婚、外交官試補に合格した。翌年公使館書記生となりイタリアに赴任。海外での活躍が始まった。
安達峰一郎博士の生家と敷地は昭和37年(1962)、鏡子夫人により「将来の日本を背負って立つ子供達のために使って欲しい」と町に寄贈されました。町は、この土地に幼児教育の場として「安達峰一郎記念保育所」を建て、生家も残した。平成11年、安達峰一郎記念保育所を現在地に新築移転し、北部公民館(愛称・安達峰一郎記念対賢堂)を建て、その一室を「安達峰一郎博士資料室」としている。
略歴
1905年 - 日本全権小村寿太郎の随員として、日露戦争講和のポーツマス条約草案作成にあたる。
1907年 - 法学博士の学位を授与される。
1919年 - 第一次世界大戦のパリ講和会議日本代表代理。
1920年 - 国際連盟第1回総会 日本代表代理として活躍。
1921年 - 国際連盟第2回総会日本代表(以後、第10回総会まで連続して日本代表)。
1928年 - パリ不戦条約締結に参与。
1929年 - ハーグ対独賠償会議日本代表。この会議でフランスとイギリスが激しく対立した時、調停の依頼を受けた安達は、日本流の茶会を開いて両国代表を招いて和解させ、会議を成功に導いた。
1930年 - 常設国際司法裁判所2期目の判事選挙で最高得票で当選。(判事の任期は9年)。
1931年 - 常設国際司法裁判所の第4代所長(裁判長)となる。(所長の任期は3年)。
1968年(昭和43年)より優れた国際法の研究業績をあげた研究者に対し安達の名前を冠した「安達峰一郎記念賞」が授賞されている。
「安達峰一郎記念世界平和弁論大会」は、山形県山辺町が産んだ世界的偉人「安達峰一郎」の平和の精神を受け継ぐ弁論大会として、山形大学都市・地域研究所と山辺町が主催。この弁論大会を通して、国家間の紛争を戦争ではなく、国際法によって解決する組織作りに生涯を捧げ、「常設国際司法裁判所」の生みの親の一人となり、非戦の制度化・世界平和の組織化に尽力した安達峰一郎の普遍的な意義に深く学び、その平和の精神を受け継ぐ。安達峰一郎の生地である山形県山辺町から平和の精神の具体化の重要性を世界に向けて発信している。
参照 http://www.adachi-mineichiro.jp/wadai/index.html