長崎市が、原爆記念日の式典にイスラエル大使を招聘しなかったとして、アメリカ及び、英独仏伊とカナダの6か国の大使が長崎での式典に参加しないが、深読みするとイスラエルとの連携を強く意識している国々だ。大使らは連名で長崎市に書簡を送り、ロシアや同国を支援するベラルーシを招待していないことを指摘し、「イスラエルを同列に置くことは誤解を招く」などと懸念を示し、同国を招待するよう求めていた。長崎市はパレスチナ自治区ガザでの戦闘を踏まえ、式典で不測の事態が発生するリスクを考慮する必要があるとして、イスラエルの招待を保留していた。平和式典ではないが、市長が殺傷される事件が二度おきていた。
政治的配慮といえば、日本は核兵器禁止条約(NTP)には参加していない。唯一の戦争被爆国で核廃絶を目指しているはずが、なぜ核禁条約に参加できていないのか、中学生でも疑問を持つのは当然だ。大人たちは日本政府と米国との戦後からの関係があるとそれとなく気づいてはいる。日本の戦後は連合軍という名目の米国の占領軍にしばらく、降伏後の命運を預けていた事が大きいのだ。
米ワシントン州南部にあるリッチランド。まちのあちこちにトレードマークは“キノコ雲”と“B29爆撃機”のマークが目に付く。1945年8月日本に落とされた原爆のプルトニウムはハンフォード・サイトで精製されたものだった。終戦後は冷戦時に数多く作られた核兵器の原料生産も担い、稼働終了した。
1942年からのマンハッタン計画におけるプルトニウム生産拠点となり、そこで働く人々のためにに作られたベッドタウンがリッチランドだ。開発当初には、人体に遺伝子的影響を残すとは知られずに、生産に励んでいたため、「原爆は戦争の早期終結を促した」と誇らしげにいう年配者もいるが、一方で「川の魚は食べない」という住民の声もある。つまり、核廃棄物による放射能汚染への不安を今も抱えながら、除染を繰り返し暮らしている。“原爆”に関与した歴史を誇りに思う者がいる一方で、多くの人々を殺戮に加担したと逡巡する者もいる。
第二次世界大戦時、1943年から、オッペンハイマーが中心となり、マンハッタン計画は秘密裏に進められた。ニューメキシコ州・ロスアラモスに原子力爆弾開発を目的とした研究所を設立。そして、ハンフォード・サイトにプルトニウム核燃料生産工場が置かれた、テネシー州・オークリッジでウラン精製工場がおかれた。1945年7月、ついにロスアラモス研究所で原子爆弾が完成され、ニューメキシコ州・アラモゴード爆撃試験場での核実験が行われた(トリニティ実験)、住民は被ばくの恐れも知らず見学した。1945年8月、広島・長崎で実戦使用され、被爆者の実態が認識さえるまでになった。
日本の敗戦後、軍拡競争の拡大を受けてアメリカは核開発を推し進め、東西の冷戦も激化、これらの核製造拠点は重要な国家の位置づけとなった。アメリカの軍事用プルトニウムの約3分の2がこの場所で1987年まで核燃料生産が行われた。 設立当初から懸念されていた放射能汚染が拡大、核廃棄物処理も問題のまま、除染作業や建物、タンク解体作業が続けられている。現在は国立歴史公園に指定され、アメリカのマンハッタン計画の研究施設群としての歴史を見ようと多くの観光客が訪れている。施設群のある「ハンフォ ード・サイト」は、ネイティブアメリカンから“奪った”土地だったことも知るのだろう。
映画『オッペンハイマー』のその後、アメリカは“原爆”とどう向き合ってきたのか? 近代アメリカの精神性、そして科学の進歩がもたらした人類の“業”が、アイリーン・ルスティック監督の『リッチランド』によって、丁寧に核燃料製造の街の様子を映像化したドキュメンタリーとなった。
監督はルーマニアのチャウシェスク政権より政治亡命者した両親をもつ米国人1世として、政治の流れの中で人々が社会と同対峙できるか、コミュニティ・リスニングを数年かけて行う手法で人間を捉えようとする。そこでは、核兵器産業を暴いて批判することを目的にするのでなく、特殊な地域のなかでの夫々の生活を映し出して、社会に未来予測を委ねる。
映画『オッペンハイマー』自体は、伝記映画としては『ボヘミアン・ラプソディ』(2018年)を抜いて歴代1位、第二次世界大戦を扱った映画としても歴代1位となった。興行収入は、公開から9月第3週末時点には9億1200万ドルを記録していた。
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