人類史最古の遺跡とも言われるギョベクリ・テペ(トルコ語: Göbekli Tepe) は、ドイツの考古学チームにより発掘調査が行われた。チームの指揮を執ったクラウス・シュミット氏による発掘は1996年から始まり、氏の他界する2014年まで続いた。
1994年、ドイツ考古学研究所(German Archaeological Institute)のシュミット氏は先んじてネヴァル・チョリでの発掘に携わりながら、次なる発掘場所を探していた。この地域の考古学の文献を見返しているとシカゴ調査団の残したギョベクリ・テペに関する簡単な説明が目に留まり、彼はもう一度調査をしてみようと決心した。彼のネヴァル・チョリでの経験から、記述に残されていた燧石や石板が丁字型の石柱の一部であろうと見当をつけたのだった。
アナトリア南東部、シャンルウルファ(旧名・通称ウルファ、古代名エデッサ)の郊外(北東12km)の丘の上に在る新石器時代の遺跡。遺丘の隣に位置し発掘調査が待たれている構造物は1万4000年から1万5000年前のものであることがトポグラフィック・スキャンによって明らかにされた。この遺跡は古代エジプトのピラミッドができる7000年も前に作られた建物と証明されており、アトランティス時代に作られたと推定されていますが、これは更新世を1000年遡行することになるので、謎に包まれた建造物だ。比較的新しい構造物にはギリシャ・ローマ時代のものも見られる。先土器新石器B期が終わると遺跡は打ち捨てられた。
遺丘の高さは15メートル、直径はおよそ300メートルに及ぶ。地名は「太鼓腹の丘」の意。標高はおよそ760メートル。
ギョベクリ・テペの遺丘に残された構造物は祭祀に用いられたと考えられるこれらの構造物には2段階の発達が見られる。第一段階(先土器新石器A(英語版))では巨大な丁字型の石柱がいくつも円を描くように並べられている。物理探査(リモートセンシング)により石柱の総数は200本以上、それらの描き出す円が20確認されている。各石柱は6メートル以上、重さは20トン。それらが基盤岩に穿たれた穴にはめ込まれている。第二段階(先土器新石器B(英語版))では石柱は小さくなり、磨かれた石灰の床を持つ長方形の部屋に立てられた。
2012年に、中国で1万9千〜2万年前のものではないかとみられる、焦げ痕のある土器がみつかっている。
また、日本では、青森において15,500-16,500年前(暦年較正年代法による)のものである可能性がある世界で最も古い弓矢が出土した。縄文土器は世界の中で最も古いものの一つではないかとされるものが出土していた。これらは、1975年(昭和50年)とその翌年に青森県立郷土館により、1998年(平成10年)に民家の建て替え工事に伴い旧蟹田町教育委員会により発掘調査で出土したもの。縄文土器に付着した炭化物のAMS法による放射性炭素年代測定法で算定されたものだ。