世界最古の長編恋愛小説『源氏物語』を書いた女流作家として知られるのが、紫式部と言う人だ。現在、大河ドラマ『光る、君へ』のヒロインとして取り上げられている、時の左大臣とも愛人関係にあったという説も今回のドラマだけでなく、平安絵巻のひとつのように記録に読み解くことがされてきた。虚実を時代に描いて、累々語り継がれ、読み継がれている。
ところが、紀元前の古代ギリシャには、サッポーと言う女性詩人がいと伝わっていた。サッポーがレスボス島出身であることで、Sapphic(サッポー風の)は女性同性愛者をSapphismと用いられたり、また、そうした性愛者を一般的に「レスビアン」とも言うようになったのは、彼女がレスボス島の出身で、英語で書くとlesbosであって、それが「レスボス人」というと"lesbian"と表記されるのが、「レズビアン」"lesbian"ということになった。そのため、今日では同島の一般名称はミティリーニ島というほうに好んで呼び変えられている。
サッポーの詩はその在世中から人気があったが、女流詩人・サッポーが生きた時代は紀元前であるため、信頼できる文献があまりに少なく、その生涯ははっきりしない。紀元前630年から紀元前612年の間のいずれかの年に生まれ、紀元前570年頃に亡くなったと考えられている。古典期のアッティカにはすでに何らかの作品集が存在していたことが知られている。
ヘレニズム時代、紀元前3世紀のアレクサンドリアにおいてサッポーの作品は正典化され、ビュザンティオンのアリストパネースとその弟子のアリスタルコスの2人によってそれぞれサッポー作品集が作られた。いずれも9巻で、アリストパネースのものは題材によって分類され、アリスタルコスのものは詩形によって分類されていた。アレクサンドリアの詩集は少しずつ散逸したが、2-3世紀ごろにはまだ大部分が残っていたらしい。
古代ギリシアにおいてサッポーは十番目のムーサとまで呼ばれて評価が高かったが、その一方でメナンドロスの喜劇の題材にもされた。古代ローマ時代にもよく知られ、オウィディウスは抒情詩「愛について」の中で「いまやサッポーの名はあらゆる国々に知られている」(Ars Amatoria, 第28行)と述べている(オウィディウスは「サッポーからパオーンへの手紙」によって伝説のイメージを広めた人物でもあった)。カトゥルスはサッポーを崇拝し、その51番の詩 (Catullus 51) はサッポーの有名な31番の詩 (Sappho 31) の翻案と考えられている。
キリスト教が興隆すると、2世紀のタティアヌス (Tatian) によってサッポーは「色気違い」であると非難され、ローマでキリスト教が公認されると、教皇の命令で焚書が繰り替えされた。これによって、19世紀末にパピルスが発見されるまでの間、サッポーの詩は引用によって残るもの以外ほとんどが消滅することになったとされる。しかしながらレイノルズによると、サッポーの詩が消滅した主要な原因は焚書のような弾圧によるものではなく、古典ギリシア語のアッティカ方言が真性のギリシア語とされるとアイオリス方言で書かれたサッポー作品は尊重されなくなり、その後パピルスの時代から羊皮紙の時代に移り変わったときには、新たに写本を作る手間をかける価値がないと見なされたために筆写されずに滅んでいったとみなされていた。
ルネサンス以後のヨーロッパではサッポーの詩そのものが知られないまま、想像力を膨らませて膨大な量のサッポーに関する伝説が生まれることになった。とくにボードレールは『悪の華』初版でレスボスを同性愛にふける島として描き、レズビアニズムの代表としてのサッポーのイメージを決定的にした経緯があった。
彼女は結婚し、クレイスという娘があったことはサッポーの詩(123番)に表れている。また、サッポーは、自分の身のまわりにいた少女たちに対する愛情ぶかい詩を多く残したため、サッポーと同性愛を結びつける指摘は紀元前7世紀ごろから存在した。また美少年パオーンとの悲恋の相手とする伝説も伝えられた。
彼女が目をかけた若い娘しか入れないある種の学校をレスボス島に作ったといわれていたが、20世紀なかばのデニス・ペイジ (Denys Page) はこの説を否定した。
同じレスボス島出身の詩人アルカイオスとは詩の交換などで交遊があった、アルカイオスのように詩作において政治と関わることはせず、主観の方向は内的情熱に傾倒し、亡命の際以外、政治への関与は避けた。
サッポーは何十もの異なる韻律によって詩を書いたが、スタンザ形式になっているものが多く、とくに1つのスタンザが4行からなる四行詩が多い。11音節の詩行が3行と5音節の1行からなる形式はサッポー詩体として知られる。
サッポーの詩は大部分が滅び、他の作品の中に引用されるなどして断片が残るのみである。19世紀末以降に彼女の詩の断片を記したパピルスが発見され、現在でも新たに発見されることがある。2004年にはケルン・パピルスから老いに関するサッポーの詩の新たな断片 (Tithonus poem) が発見され、2014年にも兄弟について記した新しい詩の断片が発見された。
彼女の詩の中でほぼ完全な形で残っているのは「アプロディーテー讃歌」 (Ode to Aphrodite) で、ハリカルナッソスのディオニュシオスによる引用によって生き残った。サッポー詩体による7つのスタンザから構成される。もう1つ、やはり引用によってほぼ完全な形で生き残ったのが『レスボス詩人断片集』のサッポー31番 (Sappho 31) (沓掛訳では「恋の衝撃」という題になっている)で、伝ロンギヌス「崇高について」 (On the Sublime) に引用されている。
『レスボス詩人断片集』(PLF)[10]ではサッポーの詩に1番(アプロディーテー讃歌)から213番までの番号を付しているが、その大部分は非常に小さな断片である。